なかにし礼さん 手がけた歌詞は4千曲 歌詞を文学のレベルに昇華した表現力【2021年墓碑銘】

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自伝的小説『赤い月』

「史上最高の作詞家」「有り余る才能の持ち主」――故人を偲ぶ言葉にその偉業が垣間見える。苦労を表現の原動力に変えた作詞家・なかにし礼さんを偲ぶ。

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 手がけた歌詞は約4千曲にのぼる。「天使の誘惑」「石狩挽歌」「時には娼婦のように」「北酒場」などヒット曲は枚挙にいとまがない。なかにし礼さん(本名・中西禮三)は、戦後を代表する作詞家だ。

 作家としても成功をおさめた。1999年から週刊新潮で連載された『赤い月』は、自伝的小説である。満洲で全てを失い、屍を乗り越え、生き延びた姿は大きな反響を呼んだ。

 38年、満洲・牡丹江生まれ。両親は小樽から渡満。日本酒作りで巨富を得る。ソ連の侵攻により逃避行が始まり、ハルビンで敗戦を迎えた。飢餓や人々の死に直面、父は病いに斃(たお)れた。

 46年秋、母と姉とともに小樽の実家にたどり着いた。そこへ復員した兄が現れ、ニシン漁で一攫千金を企てる。家を担保に借金をして漁の権利を買うが失敗。家族は困窮の淵に立たされた。

〈遠くを見るような詩はいけないよ〉

 立教大学に学びフランス語に打ち込むうち、転機が訪れた。シャンソン歌手の深緑夏代さんからシャンソンの訳詩を依頼されたのだ。

 2009年、その深緑さんが他界した時、週刊新潮「墓碑銘」の取材になかにしさんは、恩師への感謝の念をこう語った。

〈ここで遠くを見るような詩はいけないよ、歌い手が足元を見たくなるメロディだよ、とか、ここでイの音は出にくいよ、と指摘なさったり、構成力から人間の心の動きまで懇切丁寧に教えて下さった。私にとってかけがえのない修業の場でした〉

 訳詩は評判となり菅原洋一さんの「知りたくないの」(65年)で一躍時の人となる。

 菅原さんは振り返る。

「なかにしさんに出会ったおかげで僕は世に知ってもらい、人生が開けた。僕という歌手をまず考えて言葉を選んでくれました。女心をつかむのも見事です」

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