【菅原文太・没後7年】ヤクザの獄中手記はいかにして伝説の映画となったか 「仁義なき戦い」外伝〈1〉

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 菅原文太がこの世を去ってから7年。彼を一躍スターの座に押し上げた『仁義なき戦い』シリーズの第1作が封切りとなったのは1973年1月のことだった。実録映画というジャンルを切り拓き、公開から半世紀を経てなお愛され続ける不朽の名作には、いまもってひとつの大きな謎が残されている。この映画を誰が企画したのか、だ。主演の文太、プロデューサーの俊藤浩滋、日下部五朗、そして東映社長の岡田茂の証言はすべて異なる。数々の貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作ノンフィクション『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、「藪の中」の検証部分を紹介する。

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『仁義なき戦い』始動

『木枯し紋次郎』が撮影されている間に、東映は実録路線に向けて、動き出していた。

『仁義なき戦い』である。広島の美能組組長だった美能幸三が獄中で書いた手記は、いかにして東映実録映画『仁義なき戦い』シリーズの原作となったのか。

 映画が大きな成功をおさめれば、みなが自分の手柄にしたがるものだが、ここでも関係者の証言は、すべて異なる。

 まず、文太によれば、新幹線で東京と京都の撮影所を往復しているとき、駅の売店で買った「週刊サンケイ」がきっかけだったという。同誌を手に取ったのは、表紙に文太が『現代やくざ 人斬り与太』に出演したときのイラストが使われていたからである。

 ページをめくると、飯干晃一の『仁義なき戦い』の連載記事が目にとまった。記事を読み、これは映画になると思った文太は、京都撮影所に着くなり、俊藤に雑誌を持って行った。

〈麻雀やってる最中の俊藤さんに、『これちょっと読んでください』って言ったら、『ああ、わかった、置いとけ、置いとけ』なんていう。俊藤さんにしてみたらその時の勝負のほうが極めて大事なんでね〉(立松和平『映画主義者 深作欣二』)

 次の日、文太が俊藤に「あれ、読んでもらえましたか」と尋ねると「なんのことや」とすっかり忘れていた。そこで再度週刊誌を買い求めて、「絶対に読んでくれ」と念を押したという。

〈その翌日、「あれ、おもしろいなあ」というので、「いや、おもしろいじゃなくて、やらせてくださいよ」とお願いしました。それですぐ「日下部呼べ、五朗呼べ」ということに〉(同)

 俊藤がプロデューサーの日下部五朗に「おい、この原作取らんかあ」と話し、日下部が「わかりました」と答えて、映画化がスタートした。これが、文太の回想である。

 ちなみに文太は、晩年の80歳になったとき、作家の林真理子と対談し、林に〈私、今回初めて知ったんですけど、「仁義なき戦い」って、菅原さんご自身が「これをやりたい」って、連載していた週刊誌を持ってプロデューサーに言ったんだそうですね〉と聞かれ、こう答えている。

〈そう、それは本当だ。いろんな説が飛びかっていて、「俺がやった」というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない〉(「週刊朝日」2013年9月27日号)

 また、林が〈監督の深作欣二さんも、菅原さんがプロデューサーに推薦したって本当ですか〉と質問を続けると、自信たっぷりに答えている。

〈ああ本当だ。(中略)俊藤さんが「誰にするかな、監督」と言うから、「深作はおもしろいですよ。思い切って彼にやらせてみてください」と言ったんだ(中略)。はじめは「ん? どんな監督や」と言ってたけど、俺と深作とやった作品を見てくれて、「おもしろいやないか。あれで行こう」となった〉(同)

 この発言は、明らかにおかしい。俊藤はまず、文太が東映に移籍する前の63年公開『ギャング同盟』(主演・内田良平)で、深作を起用している。さらには、67年に『解散式』(主演・鶴田浩二)、68年に『博徒解散式』(同)、69年には『日本暴力団 組長』(同)と続けて起用した。

 文太と深作が組んだ『現代やくざ 人斬り与太』や『人斬り与太 狂犬三兄弟』も俊藤のプロデュースである。俊藤が深作を知らないはずがないのだ。深作もまた、『日本暴力団 組長』におけるインタビューで、俊藤とのエピソードを語っている。

〈(僕が)松竹に行ってそろそろいい加減に飽きがきたときに吉田達がきて、俊藤さんが話したいと言ってると。行ったら「いつまで松竹で何をやってるんだ」といきなり言われて、「もう飽きたろう。うちに帰ってやれ」ということになった〉(前出『映画監督深作欣二』)

『仁義なき戦い』一作目の公開は73年だが、俊藤は、少なくとも63年から深作を知っており、その作品を気に入っていたのである。

現地取材へ

 次に俊藤の証言だが、『仁義なき戦い』に関わったきっかけについて、やはり本人は「週刊サンケイ」を手にしたことから始まったと回想している。

〈私は京都から東京本社の企画会議に行くとき、新幹線の駅で第一回の載ってる号を買(こ)うた。ええタイトルやなあと感心して、読むと、中身が面白い。で、東京の企画会議に出て、これをやろうと即決した〉(前出『任侠映画伝』)

 文太が買い求めた「週刊サンケイ」は、72年5月26日号で、飯干の連載は前の週から始まっていた。俊藤の証言が正しければ、文太から週刊誌を渡されたときには、すでに前の号を読んでいたことになる。果たしてどちらの証言が正しいのか。

 社長の岡田茂の記憶もまた異なる。

〈ある日、「週刊サンケイ」の編集長が「岡ちゃん、いい素材が入ったぞ。ともかく来いよ」と電話してきたんです。さっそく編集部に行って「どんな素材だ?」ときいたら、「仁義なき戦い」だった。いいタイトルだ〉(前出『映画主義者 深作欣二』)

 編集長は岡田に美能幸三の分厚い原稿を見せたあと、飯干晃一にノンフィクションとしてまとめさせて、連載を始めることを話した。

〈「これは面白い。のった。ぜひ映画化したいから頼む」と言いました。それから脚本を笠原和夫に頼んだ〉(同)

 岡田の場合は、連載が始まる前に、映画化を決めていたことになる。岡田はまた、監督の選定については、当初から深作を想定していたという。

〈なぜ深作欣二かというと、こういうものを撮るのは、任侠物を撮りつけた監督では難しいと思ったんだ。その頃、深作が監督して当たったためしがなかった、実録、実証的な映画の方がいいと思ったんです(中略)。深作には力がある。それは見抜いておった〉(同)

 最後は、プロデューサーの日下部五朗の証言である。日下部は、そもそもの始まりは、自分と脚本家の笠原和夫が、飯干晃一の自宅へ別な企画の相談に行ったことからだと語る。

〈いろいろ話を聞かせていただいたあとで、「こんな手記があるんだけど」と見せられたのが、広島抗争で刑務所に入っていた美能幸三の原稿で、飯干さんはそれを「週刊サンケイ」に連載するという〉(日下部五朗『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』)

 後日、日下部は「週刊サンケイ」の連載を読み、血が熱くなった。これまでの任侠映画とは異なる裏切りに次ぐ裏切りや、親分も子分もない生の欲望が渦巻き、本物のヤクザが血を流す世界を、自分の手でぜひとも映画化したいと思った。

〈俊藤さんや渡邊達人企画部長に相談してみると、「ええんやないか」という(中略)。俊藤さんも、これからは少し実録寄りで行くしかないかと、いくぶん方針を変更していたようである〉(日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』)

 広島出身の岡田茂は、主要な登場人物を知っていて、大変乗り気だった。すぐにゴーサインが出たが、会社は「広島はまだ触ったら火が付きそうな状態だから、現地取材はしないで貰いたい」という。美能幸三には会わず、飯干晃一の原作を使えば充分という方針である。

 だが、脚本を担当する笠原和夫は「そんなことでは、いいモノは書けない。俺は納得できない」と突っぱねた。笠原は、徹底的な取材を基に登場人物の背景や人格を設定し、執筆することで有名である。日下部は大先輩の正論、かつ強固な意志に逆らうことは出来なかった。

〈会社に内緒でどうにか金を工面し、何の当てもなかったが、笠原さんと二人で、美能氏が住む広島県呉市へと出かけて行った。二十年に及ぶ広島抗争の発端となった流血の現場である〉(同)

 経緯は違えど、文太、俊藤、岡田、日下部の4人がそれぞれに原作に入れ込んでいたようだが、企画の提案はほぼ同時期と考えていい。原作を最初に手にしたのは岡田だとしても、実際に企画が動き出したのは週刊誌の連載が始まったあとである。連載記事を読まなければ、『仁義なき戦い』がどんな展開になるのか、予想がつかないし、企画書も書けない。

 文太、岡田、俊藤、日下部の4人とも、自分の手柄のように話しているのは、全員が原作に注目し、企画の実現に向けてなんらかの働きかけをしたからである。実録路線という大きなうねりが起きようとしている中で、『仁義なき戦い』は東映で映像化されるのが必然の作品だった。

デイリー新潮編集部

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