土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」

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行動する財界

〈君は大工の棟梁としては一流になったが、このまま終わるつもりかね。樹木と同じで、人生には必ず節目がある。これからは一企業のワクを越えて、国家という巨大なビルづくりをやってみてはどうか……〉(大谷健『戦後財界人列伝――日本経済のバックボーン』産業能率大学出版部)

 1974(昭和49)年5月、土光は第4代の経団連会長の椅子に座った。77歳の財界総理の誕生だ。師匠の石坂が目指した「行動する財界」に変身させるのが土光の使命(ミッション)だ。

 この時もラッキーだった。日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれ、黄金期を迎えていた。

 米社会学者、エズラ・ヴォーゲルが1979(昭和54)年に著わした本のタイトルである。日本人の誇りをくすぐった本で、日本人が日本固有の経済・社会制度を再評価するきっかけとなった。70万部を超えるベストセラーとなり、この書名は一世を風靡した。

 現在では日本経済の黄金期(1980年代の安定成長期からハイテク景気、バブル全盛まで)を象徴的に俯瞰する言葉としてジャパン・アズ・ナンバーワンが用いられることがある。

根性と執念が土光流

 正論居士一徹の土光敏夫を時代が必要としたのである。3期6年で経団連会長を稲山嘉寛(新日本製鐵会長)に譲り、「ようやく楽ができる」と思ったら、行政管理庁長官の中曽根康弘に引っ張り出され、1980(昭和55)年に第二次臨時行政調査会会長に押し上げられた。「増税なき財政再建」を基本理念とした最終答申を出して解散すると、今度は臨時行政改革推進審議会の会長をやってくれと頼まれた。このポストは日経連会長を務めた大槻文平に託して、ようやく引退できるようになった。

「私はどのようなポストでも、一度引き受けたからには全知全能を傾けて全うします。それが私の流儀です」

 土光は、根性と執念の人だった。理路整然と卓説を論じるインテリでは決してない。そのため石坂に推されて経団連会長になった時も、インテリを自認する知性派財界人とは決定的に肌が合わなかった。青白きインテリ経営者は、モーレツ教教祖の土光の気迫と迫力に圧倒され、息苦しさを覚えたのだろう。「書生っぽ」と批判する土光嫌いの財界人は少なくなかった。10人いれば8人がそうだったかもしれない。

 土光は、そんな口舌の徒のインテリを心底嫌った。「大学卒にはろくな奴がいない。とくにエリート大学出の秀才面をしている奴がいけない」と言ってはばからなかった。土光は、インテリ経営者は優柔不断で、決断と実行力に欠ける人種と断じていた。

 高学歴社会になって、土光が嫌ったインテリ経営者ばかりになっている。日本経済が長い低迷から浮上できないのは、「メザシの土光さん」のような根性と執念を失ったリーダーばかりになったことと深く関わっている、といった分析さえある。

 90歳で民間人として初めて勲一等旭日桐花大綬章に輝いたが、叙勲の場には車イスで臨んだ。

〈病床から発表した「私は『個人は質素に、社会は豊かに』という母の教えを忠実に守り、これこそが行革の基本理念であると信じて、微力をささげてまいりました」とのコメントは、いかにも土光らしいものだった〉(前掲『20世紀日本の経済人』)

 土光敏夫は1988(昭和63)年8月4日、老衰のため亡くなった。享年91歳。「公」に殉じた精神の見事さは、昭和の偉人というのにふさわしい。

 創業以来、最大の危機に陥った東芝が、いま必要としているのは土光さん(のような人)なのだ。心底そう思う。

有森隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間、全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書に『日銀エリートの「挫折と転落」――木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫)、『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮取材班編集

2021年11月1日掲載

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