土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」

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受験に4回失敗

 女子教育の必要性を痛感した登美は、70歳になった1941(昭和16)年に、独力で横浜市鶴見区に橘女学校(橘学苑)を開校した。校訓は「正しきものは強くあれ」「個人は質素に、社会は豊かに」。敏夫は母の気質を強く受け継いだ。土光の収入のほとんどが学校への寄付に消えたことは、既に書いた。

 土光はこう回想している。

「思うに母は毎日、日蓮宗の行をしていた。(その過程で自分が)女子教育をやらなければならないとの啓示を得たのではなかろうか」

 土光は幼少期、ガキ大将で鳴らしたが、青春時代は蹉跌の連続だった。

 岡山県の秀才が集まる県立岡山中学(現・県立岡山朝日高校)の受験に3度失敗し、私立関西(かんぜい)中学(現・関西高校)に入った。ここで校長の山内佐太郎に「至誠を本とすべし、勤労を主とすべし、国士魂を養うべし」と徹底的に仕込まれた。

 土光は経団連会長時代に「僕の心中には、山内さんの薫陶が今に生きている」と語っている。

 卒業後、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に挑んだ。競争率は22倍。ここでも受験に失敗した。これが4度目の挫折だ。

本家モーレツ・サラリーマン

 普通はこれで挫けてしまうものだが、土光はここでようやく目覚める。生半可な勉強では世の中で通用しない。目的達成のためには常に全力を傾ける。初めて土光は本気で勉強する気になった。母校の小学校で代用教員をしながら毎夜、学校の宿直室で猛勉強した。

 その甲斐あって翌1917(大正6)年、めでたくトップで東京高等工業学校の機械科に入学した。旧制中学、高等工業(高専)の受験の失敗が重なり、既に同級生より3歳年上になっていたから、兄貴のような存在だったのだろう。

 土光は後年、自分の過去を語らないことで有名だった。受験での落ちこぼれは、人に誇れるものでない。およそ凡俗の及ばない、土光のとことんやり遂げる執念は、青年期の挫折体験によって形成されたといっても過言ではない。

 1920(大正9)年、土光の社会人として出発点は、東京石川島造船所(現・IHI)という小さな会社だった。学生に人気だったのは、初任給の高い三井、三菱の財閥系と満鉄だった。満州鉄道は月給200円いう高給だった。兄貴分で親分肌の土光は生長(級長)として同級生の落ち着き先を見届け、最後に残った石川島を選んだ。初任給は45円と低かった。

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