スポーツ界では古橋広之進さんに続き2人目…長嶋茂雄さん、文化勲章受章の意味を考える

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喜びすぎて踏み忘れ

 秋晴れに恵まれた11月3日、文化の日。1回裏の第一打席はサードゴロに倒れた。慶應の好投手・林の投球を力んで引っ掛けてしまった。だが、長嶋の中にひらめきがあった。目の前に、大きくなって近づいてくる白いボールが見えたのだ。

(これだ、このボールを、来た球をたたけばいいんだ!)

 そして5回裏。打席が回ってくると長嶋は自分のバットでなく、目についたチームメイトのバットを抜いて打席に立った。普段使っているグリップの細い長距離打者用のバットでなく、グリップの太いタイカップモデル。ホームランよりヒットを狙うのに適したバットだ。チームメイトがそれを見て焦ったが、長嶋は久々に意気揚々と投手を見据えていた。4球目、肩口から曲がり落ちて来るカーブに身体が反応した次の瞬間、白球が澄み切った秋の青空に舞い上がった。

「やりました、長嶋、ついにやりました」、実況アナウンサーの叫びが全国に伝わった。

 長嶋は苦しんだ末に六大学野球新記録の通算8号ホームランをかっ飛ばし、ヒーローになった。

 野球で国民の心をひとつに引き付けた。野球で国じゅうを元気にした。スポーツにそのような無限の力があることを日本人に教えてくれたのが、先に受章した「フジヤマのトビウオ」古橋であり、「燃える男」長嶋だった。

 翌春、巨人に入団した長嶋は、デビュー戦で国鉄(現在の東京ヤクルト)・金田正一投手に4打数4三振を喫し、衝撃のデビューを飾ると、その後は打ちまくり、新人ながら打点王とホームラン王の2冠に輝いた。打率.305、92打点、29本塁打。打率だけが惜しくも2位だった。しかも、あと1本で「トリプル3」も達成するところだった。いや実は達成していたと2015年に山田哲人(ヤクルト)と柳田悠岐(ソフトバンク)が達成した時に紹介された。長嶋は9月19日の広島戦で28号を打ったが喜びすぎて1塁を踏み忘れてアウト、投手ゴロと記録された。。それさえなければ30本だった。そんな失敗もお茶目な長嶋の魅力だった。そして2年目の59年(昭和34年)6月、史上初の天覧試合でサヨナラホームランを打ち、長嶋は国民的な英雄となった。その後も長嶋は幾多の活躍で日本人の感情を上げたり下げたり、長嶋と一緒に多くの国民が感情の起伏を共有した。

受章の意味

 監督初年度でリーグ最下位、監督解任など、国民をガッカリさせるのもまた長嶋だった。しかし、そのたび這い上がり、必ず無上の喜びを体感させてくれるのも長嶋だった。昭和から平成の長い期間、日本人の多くが、長嶋と喜怒哀楽を共にした。

 プロ野球がそれだけの影響力を持ち、社会に大きな役割を果たしたことは、スポーツがまさに文化として貢献した証と言えるだろう。いまスポーツが商業主義と勝利至上主義に埋没し、長嶋的なスカッとした輝きを失いつつある。それが文化としてのスポーツの凛々しさを奪っているかもしれない。そのためだろうか、長嶋さんの受章に疑問を投げかけ、スポーツより科学技術の分野の人材こそ顕彰すべきだといった声があるのは、悔しくてならない。しかし、いまのスポーツ界は関心のない人たちにそんな気持ちを抱かせるような、あざとさに包まれていて、文化の度合いを失っているのかもしれない。そういう現実も、真っすぐに受け止めなければならない。また、長嶋茂雄の活躍や長嶋が日本社会に与えた大きな影響をよく知りもしないで、平気で非難する風潮も、日本社会の知的文化の衰退を物語っている。当然、時代とともに忘れられる大切な出来事やレジェンドの真価を、次の世代に伝える努力や機能も社会の重要な役割だと改めて思う。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

デイリー新潮取材班編集

2021年10月30日掲載

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