城下町はグルメの宝庫? 現存する「12天守」とともに楽しめる郷土料理一覧

国内 社会 2021年10月12日

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 日本の城の象徴「天守」。現存するのは全国に12のみで、風雪に耐えた木造のホンモノは、いずれも訪れる価値がある。そのうえ城下町はグルメの宝庫。そろそろ涼しさが増してマスクも苦にならない季節に。やっと緊急事態宣言が明けて、久々の旅先にどうだろう。

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 本格的な秋の行楽シーズンも到来し、旅が楽しめる日も近い。そこで今回は、城の代名詞といえる天守を特集。旅の満足度を高めてくれるご当地グルメとともに、その魅力を紹介したい。

「現存12天守」とは

 全国には、江戸時代から残る天守が12棟ある。昭和に入っても約60棟、1940年代にも20棟が残っていたが、太平洋戦争の空襲などで焼失・倒壊してしまった。奇跡的に残ったこれらの天守を「現存12天守」と呼ぶ。

実戦仕様の天守

 たった12棟といっても、実に多種多様だ。まず、戦いを想定した天守とそうでない天守がある。軍事的要素が強いのが、姫路城天守や彦根城天守。8棟の国宝から構成される姫路城天守群は、世界文化遺産として世界中の人々を魅了する壮麗さを誇るが、実は実戦仕様でもある。

 例えば、天守地階には流しや厠(トイレ)がある。天守は日常生活を送る場ではないから、これらの設備は非常時、つまり籠城時の備えだ。もっとも、実際に戦場にはならなかったため使用した形跡はない。天井付近には「高窓(煙出し)」という火縄銃の煙を排出する小窓もある。

 3階と4階にある「石打棚」は、射撃や物見のための足場だ。天守は外観の見栄えを重視するため、各階の天井の高さに違いが生じることが多い。姫路城天守の場合は手が届かないほどの高い位置に窓が配置され、窓を物見窓や射撃用の狭間(さま)に転用できない。そこで、石打棚を設置しているのだ。石打棚の下は収納庫として活用され、武具や弾薬、食料を保管していたと考えられる。

 彦根城天守も同様に、美観と実用を兼ね備えている。高さ20・5メートルと、天守としては小ぶりだが、破風(はふ)の数が多く、さまざまな種類の破風が壁面を飾る。

 壁面に狭間が見当たらないが、実は外側を漆喰で塗り固めた「隠し狭間」が採用され、いざというときは壁を叩き割って使う。美観を損なわずに実用性を高める工夫だろう。

 破風の内側を利用した射撃・監視の空間「破風の間」も、引き戸で隠された「隠し部屋」になっている。

緊迫した情勢を反映

 軍事性の高い天守は、築造時の緊迫した情勢が影響している。彦根城は、幕府の命令で諸大名が築城工事を請け負う「天下普請」によって、徳川家康の重臣・井伊直政の子、直継が1604(慶長9)年から築いた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、大坂城の豊臣秀頼との決戦を見据え、豊臣恩顧の大名が大坂城に結集しないよう、大坂へ通じる主要街道沿いの城を強化した。彦根城も、こうした戦略を元に築かれた徳川方の城といえる。

 彦根城は、主要街道が交差し、戦国時代から重要視された地にある。家康は西国の大名を牽制する拠点としてこの地を重視し、井伊家に任せたのだろう。実戦を想定しているため、設計の妙も光る。

 姫路城も、徳川方の城といえる。関ヶ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年から家康の娘婿にあたる池田輝政が築城を開始。山陽道に近く、西国の大名が大坂へ結集することあらば壁となる役割を担っていたはずだ。新領主の威厳だけでなく、徳川家の権力を見せつける存在でもあったのだろう。

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