ビートたけしとアルバイトでギャラが貰えなかった思い出 元ゆーとぴあ・ホープの「昭和芸人回顧録」

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 お笑い芸人の大半が吉本総合芸能学院(NSC)や人力舎のスクールJCAなどの養成所出身者で占められるようになった。昭和期の芸人はどんな経緯でお笑い界に入ったのだろう。芸歴53年、ゴムパッチンでおなじみの元ゆーとぴあ・ホープ(71)師匠に聞いた。

「かつて東京の新宿2丁目に『モダンアート』というストリップ劇場があったんですよ。ストリップの合間に漫才を見せる一方、寺山修司さんのアングラ劇団『天井桟敷』の公演もやっていた。僕の場合、上京と同時にこの劇場に向かいました」(ホープ、以後のカギ括弧は特に断りがない限り同)

 そう語るのはホープである。1968年のことだった。異色のストリップ劇場・モダンアートは1987年まで存在した。

 ホープは福岡県筑後市の出身。地元の高校を卒業すると、まず大阪の吉本新喜劇の門を叩き、白木みのる(87)の付き人になった。「てなもんや三度笠」(朝日放送)などへの出演で人気者になった芸人だった。

 だが、半年で辞め、東京へ。

「付き人は芸を教えてもらえないし、よく引っぱたかれたからでした」

 どうして叩かれたのか。

「例えば、ご飯のよそい方が悪い時。白木さんのお茶碗は小さいんですよ。その中の少ないご飯をパパッと食べ、すぐに『お代わり』と言う。面倒くさいから、てんこ盛りにしたんです。そうしたら『ワシは死んだ人間じゃないぞ!』と叩かれた(笑)。確かに仏前に供えるご飯みたいでした」

 モダンアートのことは吉本の知り合いに聞いていた。劇場に着いた途端、スタッフに向かって「芸人になりたいんです。裏方でもなんでもやります」と頼み込んだ。すると即採用となり、芸人の研究生となった。

「今になって思うと、軽かったですね。すぐに入れてくれて、契約書も何もないんだから」

 相方も瞬く間に決まった。やはり研究生で早大の仏文科出身の男性だった。2人は「富士ホープ・ピース」を結成した。

 誰かの弟子になる時もやっぱり軽かった。

「酒を飲んでいた先輩から『俺の弟子になるか?』と誘われることもありましたよ」

 ちなみにホープの師匠は故・レオナルド熊さん。会った直後に「弟子になれ」と勧められ、その言葉に従った。あっと言う間の出来事だった。

 芸人は同世代の芸人から刺激を受ける。ホープの場合、まず1971年に結成された星セント・ルイスだった。

 背の高いセントは獅子てんや・瀬戸わんやの弟子。ルイスは晴乃ピーチク・パーチクの弟子だった。どちらも昭和の名漫才コンビだ。

「セント・ルイスは『田園調布に家が建つ』のフレーズで一世を風靡しましたけど、最初は全くウケなかった。田園調布に家が建つというのは人生の成功を意味しますが、お客がその意味を理解できなかったからです。それでもウケるまでこのフレーズを言い続けた」

 ホープが一番、触発されたのはビートたけし(74)である。

「タケちゃんは初めて会った瞬間、オーラを感じた。完全に別格だった。天才でしたよ」

 たけしは明治大工学部を除籍になったあと、芸人を志し、ストリップ劇場・浅草フランス座へ入った。エレベーターボーイをしながら劇場の経営者兼座長だった深見千三郎にコントなどを学んだ。

 1972年には、やはり深見の弟子だったビートきよし(71)とツービートを結成。ホープたちと一緒にストリップ劇場のステージに立った。最初から人気があった。

「でも時には心ない野次を浴びせられた」

 すると、たけしは黙っていなかった。

「お前、顔はおぼえたからな! 表で待っていろ!」

 相手が客だからといって、へりくだらなかった。

「そんなこと言えたのはタケちゃんだけでしたよ」

 たけしは本当に劇場の前で野次を飛ばした客を待つこともあった。

 ホープはたけしと仲が良く、2人で即席コンビを組み、千葉へ営業に行ったこともある。興行界でショクナイ(内職)と呼ばれるもので、所属事務所に内緒のアルバイトだった。

「その時の営業の現場は建築会社のパーティー。けれど、全くウケない。『よし、それなら』と、タケちゃんと一緒に下半身を出したんですよ。だけど、それでもダメ。がっくりきました」

 1970年代の芸人にとって下半身露出はリーサルウエポンだったのだ。

「おまけに下半身を出した途端、『あいつらを帰らせろ!』と怒声が上がり、ギャラをもらえなかった。情けなかった。東京に帰る電車の中で、タケちゃんと2人で『ゴメン』『下ネタやり過ぎたね』と慰め合いました」

 千葉で営業をやっていたのはホープたちばかりではない。綾小路きみまろ(70)はキャバレーで漫談を見せていた。これがホープには思い出深い。

 きみまろは1970年に拓殖大に入学すると、歌舞伎町のキャバレーで司会のバイトを始めた。今のきみまろの芸は「最強毒舌漫談」と呼ばれているが、若き日のトークはそれどころではなく、激辛だった。

「お客に向かって『ここの社長はヤクザなんです』って言うんですよ。さらに『指がありません。だから女の子に手を出しちゃ駄目ですよ。大変なことになっちゃいますからね』って。もちろん冗談ですが、お店は真っ青でしたよ(笑)」

 ホープがブレイクしたのは1978年。ほかの人間とコンビを組んでいたピース(69)を誘い、ゆーとぴあを結成した直後だった。

 必殺技のゴムパッチンは最初から出来ていた。ホープがゆーとぴあ結成前に組んでいたトリオ「スリーピース」の時代に考えてあったのだ。

 東京・赤坂のナイトクラブで行われたスリーピースのショーの際、ステージ上のゴム製の飾りを抜き取り、1人のメンバーにくわえさせた。アドリブだった。

 そして飾りを限界まで引っ張った後、手を放した。すると、飾りをくわえていたメンバーは思い切り痛がった。客席はドッと沸いた。ホープは「これだ」と思った。

 ゆーとぴあになってからはゴムを持っていた手を放す前、ホープが哲学的なセリフを口にするようになる。

「人生は長いようで短い。短いようで長い。そう、この1本のゴムのように」

 余計にウケるようになった。

 ところで相方にピースを選んだ理由は何か。

「ゴムパッチンをやる時、スリーピースの面々はかわいそうに思えた。本当に痛いから。でもピースはかわいそうだと思わなかった。子供が生まれたばかりで、稼ごうと躍起になっていたので。それと、柔道と空手をやっていた体育会系だから、リアクションがよかった」

 ただし、痛いことには変わりがない。ピースは苦痛に堪えていた。ところが、売れっ子になり、100万円単位で日銭が入って来るようになると、態度が変わった。

「ピースのほうから『もっとゴムを大きくしよう』と言い始めた。より痛くなり、面白くなるって。金の力ですよ(笑)」

 ちなみにピースは芸人になる前は内山田洋とクール・ファイブのボウヤをやっていた。現在の芸人と昭和芸人は出自が全く違ったのだ。

 昭和芸人は何から何までワイルドだった。

「あのころの芸人は迷惑をかけてナンボでしたからね」

 借金取りが演芸場に取り立てに来ることも珍しくなかった。

「ステージの両脇で借金取りが待ち構えているわけ。逃すまいとしていた。そういう時は客席に降り、花道を通って逃げる。何も知らないお客は『サービス精神あるな』と喜んでくれる(笑)」

 今の芸人はアイドル的な人気を得られている半面、迷惑をかけることは許されない。賭博はもちろん、不倫も御法度。どう見る?

「時代が変わったのだから、仕方がないですよ。我々はスマホがなかった時代の人間ですからね」

 もっとも、ホープは自分が過去の人になったとは思っていない。お笑いのライブを行う一方、歌もうたい、YouTubeにアップしている。

 歌の次回作は日本在住のフィンランド女性、トリ・テレスウィークさん(31)とのデュエット曲「夫婦綴り」になる。

 これからも新しいエンターテイメントを探し続ける。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮取材班編集

2021年8月29日掲載

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