パッとしなかった菅原文太の俳優人生を変えた伝説のヤクザ・安藤昇との出会い

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 意外に思われる方もいるだろうが、高倉健、石原裕次郎、小林旭の芸能界デビューはともに1956年である。キャリアのスタート時から脚光を浴びた3人から遅れること2年、菅原文太が25歳で本格デビューした。だが、なかなか役に恵まれず、「仁義なき戦い」での熱演でようやく脚光を浴びたとき、文太は40歳になっていた。仕事が欲しい、もっと上に行きたい。スターたちの放つまばゆい光の陰でもがく文太の姿を『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の著者、松田美智子氏が紹介する。

時代を代表する3人のスターのデビュー

 菅原文太は遅咲きのスターと言われている。下積みの時間が長く、世に広く名が知られるようになったのは1973年公開「仁義なき戦い」(深作欣二監督)のときで、40歳になっていたからである。

 文太が映画界入りしたのは1958年、銀座の喫茶店で新東宝の宣伝部員にスカウトされた。このときの文太は25歳。スカウトされるまでは、服飾雑誌を飾り、ショーにも出演するファッションモデルだった。

 その2年前の56年、のちに時代を代表するスターとなる3人がデビューしている。高倉健、石原裕次郎、小林旭である。デビュー当時のそれぞれの年齢は高倉が25歳、裕次郎が22歳、旭は19歳だった。文太と同じ30年代の生まれで、キャリアは文太より2年早いだけだが、比べものにならないほど恵まれたスタートを切っていた。

 高倉健は東映ニューフェース2期生として入社。56年の「電光空手打ち」(津田不二夫監督)でいきなり主役デビューし、同年公開の「恐怖の空中殺人」(小林恒夫監督)で共演した江利チエミと59年に結婚している。高倉は28歳、江利は22歳だった。また、58年には「その灯を消すな」で歌手デビュー。マスコミでは妻の方が有名人という扱いだったが、小品の映画でも主役が多く、着実にキャリアを積み重ねていった。

 石原裕次郎は、プロデューサーの水の江瀧子にスカウトされ、兄の石原慎太郎の小説が原作の「太陽の季節」(古川卓己監督)でデビュー。慶応義塾大学を中退して日活入りした。同年の「狂った果実」(中平康監督)では主役デビュー。この作品には北原三枝(石原まき子)が出演しており、裕次郎は彼女のファンだった。その後は、日活の黄金コンビとして共演を続け、60年に結婚。二人の交際が始まったときは、北原が日活の看板女優で、裕次郎は新人だったため、反対の声も多かったが、二人で海外に逃避行するなど、既成事実を作って会社を説得した。裕次郎が26歳になる誕生日に入籍している。北原は27歳だった。

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