松下幸之助の長女「幸子さん」は無念の死 ゴッドマザーの我執に抵抗し続けた経営陣

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“神の一族”との死闘

 コロナウイルスの感染が拡大する今年2月22日、松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助(1894~1989)の長女・幸子が、心不全のため大阪府守口市の病院で死去した、との報が流れてきた。享年99。(経済ジャーナリスト・有森隆)

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 夫は松下電器の2代目社長の正治(1912~2012)。喪主は長男でパナソニック特別顧問の正幸(75)だった。

 昭和天皇崩御から3カ月余が経過した1989年4月27日、松下幸之助は94歳の生涯を閉じた。臨終の枕辺には正治・幸子夫妻をはじめとする松下家の人々、妻・むめの(1896~1993)の弟の長男、甥の井植敏・三洋電機社長(89)ら、ゆかりの面々が打ち揃った。

 それからおよそ5年後の1993年9月5日、かねてお揃いであつらえておいた経帷子(きょうかたびら)をまとい、むめのが幸之助のあとを追った。享年97。

 幸子の夫・松下正治は2012年7月16日、99歳で老衰で亡くなった。そして、幸子が今年、夫と同じ99歳で他界した。幸之助のゆかりの人々が鬼籍に入った。

 改めて、松下家のゴッドマザーとして君臨した幸子ら幸之助ファミリーがやってきたことを振り返ってみよう。

 丁稚奉公から身を起こし億万長者になった松下幸之助は、「経営の神様」と賞賛された。その幸之助を“神格化”し、マネシタデンキと揶揄されながらも、松下電器は家電業界の雄として君臨した。しかし同時に、幸之助神話に呪縛され続けた。松下電器にとって松下家は“神の一族”だった。

肉親の縁が薄かった幸之助

 松下電器の新任の取締役は、真っ先に松下家に就任の挨拶に出向くのが慣例だった。上座に幸之助の妻・むめの、長女・幸子ら一族が居並び、取締役は「おかげさまで(役員に)就任させていただきました」と礼を述べ、祝いの杯を受けるのだった。時代錯誤としか言いようのない儀式だが、松下家の人々にとって、取締役といえども使用人でしかなかった。

 松下幸之助は1894年11月、和歌山県海草郡和佐村(現・和歌山市)に生まれ、9歳で丁稚奉公に出された。奉公先は火鉢屋から自転車屋、大阪電燈(関西電力の前身)の見習工へと変わった。

 改良ソケットを作ったのを契機に独立し、1918年3月、大阪市北区西野田大開町(現・福島区大開)に松下電気器具製作所を創業した。幸之助23歳、妻・むめの21歳、むめのの弟・井植歳男15歳。わずか3人での船出だった。

 幸之助は肉親の縁が薄かった。父も母も、2人の兄や5人の姉も早くに失った。亡くなった姉がお膳立てしてくれたのが、井植むめのとの結婚だった。むめのには3人の弟がいた。のちに三洋電機を創業する井植歳男(1902~1969)、祐郎(1908~1985)、薫(1911~1988)である。

 1935年、個人経営から株式会社に発展した松下電器には、3兄弟をはじめ井植一族が名を連ね、松下電器は松下家というよりも井植家の同族経営のような会社だった。

娘に婿養子

 戦後、井植歳男ら3兄弟は松下電器を去る。幸之助と歳男の間に確執があったといわれている。

 幸之助はむめのとの間に1男1女をもうけた。長女・幸子と5年後に生まれた待望の長男・幸一である。肉親の縁に恵まれなかった幸之助は、「松下の血が絶えるのではないか」という恐怖感から解放されたという意味で、人生で最も幸せな時期だったかもしれない。しかし、幸一はわずか300日足らずで急死する。幸之助の落胆はいかばかりだったろうか。

 幸之助は松下の血を絶やさないために、一人娘・幸子に婿養子を迎えた。正治(旧姓・平田)である。伯爵家に生まれた正治は、東京大学法学部を卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に勤めていた。血統、学歴、就職先とも非の打ちどころのないエリートである。

 幸之助は正治に、事業の継承と同時に、松下家の血の継承を託した。しかし、すぐに不釣合いな養子縁組だったことを思い知らされる。人生観から商売についての見方、考え方にいたるまで、幸之助と正治は相容れるところはなかった。

 幸之助は、正治に経営の才がないことを見抜き、正治を社長にしたくなかった。しかし、「うちは女が強いんや」が口癖だった幸之助は、妻のむめのと娘の幸子に頭が上がらず、不本意ながら1961年に正治を後継者にして、いったんは引退する。

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