ヤクザ映画黄金期を支えた鶴田浩二の「芸」と「色」 山口組組員に襲われ頭と手に11針縫う大けがも

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 東映は、娯楽を徹底的に追求してきた会社である。仮面ライダーから任侠映画まで、子供が楽しめるものから大人向けまで、あの手この手で作品をつくり、世に送り出してきた。今年、創立70周年を迎えたその歴史の中で、大きな曲がり角を迎えたのは昭和30年代半ばのこと。お家芸だった時代劇映画に陰りが見えた東映が着流し姿のヤクザが主役の任侠映画に打って出たところ、興行収入は他社を大きく引き離し、独走状態になった。最初の立役者となったのが鶴田浩二である。著書『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の取材で東映の社史と舞台裏に通じた松田美智子氏が、元祖アイドルというべき鶴田の人間臭い魅力を紹介する。

『残侠篇』を映画化

 東映内部では10年周期説が囁かれている。どれほど好調なジャンルでも、10年経てば客に飽きられるというものだ。

 昭和30年代半ば、東映はお家芸の時代劇に翳りが見え、観客数の低下に歯止めをかけられずにいた。そのとき時代劇に代わる新たな路線を打ち出したのが、当時、東京撮影所長だった岡田茂(のちの会長)である。

 1962(昭和37)年秋、京都撮影所長から左遷のかたちで異動してきた岡田は、赤字を続ける東京撮影所に大幅なリストラを断行。古株の監督やスタッフたちの契約を解除し、代わって井上梅次や石井輝雄、深作欣二らを起用してギャングアクション映画を製作したものの、すぐに飽きられてしまい、あとが続かなかった。

 客を呼べる企画を模索すること1年、岡田は尾崎士郎の自伝的長編小説『人生劇場』を思い出す。すでに何度も映像化されている作品だが、田舎から上京した主人公・青成瓢吉の成長を描くものがほとんどだった。自分が作るのなら、切り口を変えてみようと考えたのである。

 プロデューサーの吉田達は、ある日、岡田に呼ばれ、『人生劇場』全巻を読破してくるよう命じられた。

「徹夜して全巻読み終え、後日、岡田さんに一巻目の『青春篇』からあらすじを話したんだけど、『残侠篇』でストップがかかった。その巻を映画化するので、作者に会って承諾を取って来いと」

 吉田は尾崎を訪ねて交渉を始めたが、小説を大きく翻案し、脇役に過ぎない侠客の飛車角を主人公に据えると聞いた尾崎は驚き、首を横に振った。そこで、岡田自らが交渉に乗り出したところ、尾崎は映画のタイトルに必ず「人生劇場」と入れること、自分がモデルである青成瓢吉を登場させることを条件に挙げた。

 岡田は尾崎の条件を飲み、すぐさまキャスティングに取り掛かった。

 時代は大正、着流しのヤクザ飛車角役には鶴田浩二、飛車角が惚れ抜いた遊女のおとよ役に佐久間良子、そして飛車角の女とは知らずにおとよに惚れた弟分・宮川健役を高倉健。青成瓢吉は梅宮辰夫が演じた。

 岡田の狙いは当たり、1963(昭和38)年に公開された「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)は、配給収入2億8800万と記録的なヒットを飛ばし、東映が時代劇から任侠映画へと大きく舵を切るきっかけともなった。

 飛車角を演じた鶴田浩二は、3年前の1960(昭和35)年、俊藤浩滋プロデューサーに引き抜かれて東宝から東映に移籍。高待遇で迎えられたものの、これといったヒット作がなく、いわば燻っている状態だった。だが、この作品で息を吹き返し、社内でも大物扱いになる。

岸恵子と「戦後最大のロマンス」

 鶴田の演技力、醸し出す色気が飛車角役で再評価されたのだが、彼が20代の頃に人気絶頂のアイドルだったことは、もう忘れられているかもしれない。また、歌手としても根強い人気があった。

 1951(昭和26)年、鶴田は芸能雑誌「平凡」の人気投票で、池部良、長谷川一夫を抜き、一位になっている。「絶世の美男子」「哀愁のプリンス」などと称され、ブロマイドの売り上げも一位。「平凡」「明星」の表紙を毎号のように飾った。残っている写真を見ると、見事に整った顔立ちだが、どこか翳りを感じさせる。女性だけでなく、男性にもファンが多かったというから、容姿だけではない魅力があったのだろう。

 昭和20年代を代表するアイドルとして君臨した鶴田だが、30歳近くになったとき、大きなスキャンダルが見舞う。

 1952(昭和27)年春、マスコミが「戦後最大のロマンス」と騒いだ岸恵子との恋愛である。2人は結婚を望んだが、岸が所属する松竹に大反対されたことから、鶴田は失踪先で睡眠薬を飲み、自殺未遂事件を起こす。鶴田の思い込みの強さは、役を演じるときには情感として生きるのだが、この頃から公私ともに波乱含みの人生を送るようになる。

 翌53年にもマスコミを騒然とさせる事件が起きている。大阪で歌謡ショーに出演していた日、天王寺区の旅館で山口組組員4人に襲撃されて、頭と手に11針縫う大怪我を負ったのだ。鶴田が襲われたのは、鶴田のマネージャーが山口組三代目・田岡一雄組長に無礼な態度をとったことが原因とされているが、組長はこれを否定。後日、鶴田は田岡に会い、事件について釈明を求めたところ、田岡は鶴田の毅然とした態度を気に入り、以後は親交を深めるようになったという。

 また、この頃の山口組はまだ小さな組織だったが、事件により名前が知れ渡り、特に芸能界では山口組を怒らせると怖いと評判になった。

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