朝原宣治「リレー金メダルは夢じゃない」 伝家の宝刀「アンダーハンドパス」の歴史とは

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 20年前、過去の遺物と思われていた技術は今や日本リレーチームの生命線だ。個々の走力をカバーする「アンダーハンドパス」はいかに生まれ、進化してきたのか。2008年北京五輪で日本初のメダルをもたらした朝原宣治氏(49)にその歴史と今夏の展望を訊いた。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

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 08年北京五輪銅メダル獲得(18年にジャマイカのメダルはく奪で銀に繰り上げ)で日本男子短距離界の長年の夢を実現した、陸上男子4×100mリレー。16年リオデジャネイロ五輪では、失格したアメリカに先着する世界国別歴代3位(当時)の37秒60で銀メダルを獲得し、世界を驚かせた。東京五輪へ向けて選手たちも、「次は金メダル」と意識を強くしているが、その大きな武器のひとつが、日本チームが01年の世界選手権(エドモントン)から採用しているアンダーハンドパスだ。

 受け手が手のひらを下に向け、渡し手がそこにバトンを押し込むアンダーハンドパスは、当時はひと昔前の技術だと思われていて、受け手が手のひらを上に向けて待つオーバーハンドパスが主流になっていた。その方がバトンの受け渡しをする選手同士が互いに腕を伸ばし合い、体が1m以上離れた状態で渡せ、利得距離(走者間の距離)として稼げるからだ。

 ではなぜ、日本チームはアンダーハンドパスを採用したのか。当時の高野進・日本陸連短距離部長は、

「左右の足を2本の線路の上に乗せて走るような2軸的な感覚の走りを追求していた時だったから、そのままの走りでバトンを渡したいと思った」

 とかつて筆者の取材に説明していた。

 オーバーハンドパスだと渡し手は腕と肩を高く上げるが、そうすると走りにくくなってブレーキがかかってしまう。受け手も肩を振れないため加速がしにくい。だがアンダーハンドパスなら渡し手は腕振りもそのまま続けられ、自然な流れの中で受け手の手にバトンを押し込める。

 北京五輪時の苅部俊二短距離部長も以前にこう話している。

「最初は選手たちも、ひと昔前のテクニックだと否定されていた感もあるアンダーハンドには抵抗があったみたいです。確かに完璧に決まればオーバーハンドの方が速いと思うが、その分リスクが高い。その点アンダーは走るのが楽だし、選手同士が接近してバトンを渡せるのでオーバーより失敗のリスクは低いと思う。そのうえでスピードを求めていくというのは、ローリスク・ハイリターンを目指していくことなんです」

 1996年のアトランタ五輪からリレーの主力メンバーだった朝原宣治氏に改めて日本のバトンパスの歴史について尋ねると、「最初は何をやりだすんだろうと思った」と語る。

「00年、高野さんに『次の世界選手権からこれでいく』と言われた時、白黒の映像でやっていたのを見たくらいだったし、それまでは手を高く上げてもらうという指導を受けていたから、1年でこんなことできるのかなと思いながら取り組み始めた感じです。当時は高野さんが指導していた末續慎吾くんがリレーのエースとして君臨していた。彼の走りは加速時に前傾を保ちながらすり足で走るので、オーバーハンドパスだと、バトンを渡しにくい。リレー時でも彼が加速しやすい方法としてアンダーハンドパスを考えたのではないかとも思います」(朝原氏・以下同)

 01年世界選手権のオーダーは、アンカーの朝原、1走・松田亮以外は高野氏が指導していた東海大勢ということも、それを推進する要因になったのだろう。そして本番では準決勝を2番目の記録で通過。決勝では3走の藤本俊之がバトンパスの少し前に、内側のレーンの選手の肘が胸に当たる不利を受けて減速。5位(後にアメリカがドーピング違反で失格になり4位に)に止まったが、それがなければメダルは確実に取れるまでの状態だった。

「3秒75で走ったら…」

「あの時は僕も絶好調だったから、普通に行けば銀は取れましたね」

 と朝原氏は振り返る。

「実際にやってみると、身体が起きるとか手を上げたまま加速するような変な動きがなくなった分、走りやすいという感じでした。それにその当時はバトンを受け渡す時に、渡し手と受け手がわずかな時間並走する感じだったので、その意味では失敗はしないという安心感もありました。1回ミスをしてももう一度くらいはバトンパスをやり直せる余裕もありましたから」

 その当時意識していたのは、受け手のスピードが乗ったところで渡すというくらいだったが、それが完成したのは4位になった04年アテネ五輪だという。

「アテネ五輪へ向けては代表合宿が頻繁にあり、ほとんどの選手が参加してアンダーハンドパスをする機会も増えたので、バトンパスが磨かれていったというのはあります。07年大阪で行われた世界選手権では5位ではあったけど、38秒03のアジア新記録を出すまでになりました」

 この世界選手権までは、リレーチームはバトンを渡せる20mのテイクオーバーゾーンのタイムを計測し、その区間でそれぞれ2秒を切ることを目標にしていた。だが世界選手権後には新たにスタッフに加わった土江寛裕コーチ(現オリンピック強化コーチ)の提案で、そのゾーンの前後10mずつも含めた40m区間のタイムを目安にすることにした。20m区間のタイムだとバトンパスが成功しても失敗してもタイムはあまり変わらない。しかし、それを40mにすると受け手のスタートが遅れれば手前の10mで渡し手が減速するし、受け手のスタートが早すぎればいったん減速してバトンを受けてから再加速するため、その後の10m区間のタイムが落ち、明確に数字に表れる。

「その区間を3秒75で走ったらメダルが可能になる37秒台が出ると言われました」

 それからは20mのテイクオーバーゾーンのどの位置でバトンを渡せばいいかを考え、15m地点がベストだと結論を出した。加速した時の5mは0・5秒もないくらいで走るため、ミスをすればゾーンでバトンを渡せず失格。精度をあげることが必須になる。40m区間の計測でさまざまな状況がわかりやすくなったことで、選手自身も攻めのバトンパスを意識し、北京五輪の銅メダル獲得につなげたのだ。

「僕の認識だと、4位になった09年、ベルリンの世界選手権までは北京五輪のメンバーだった高平慎士と塚原直貴の2本柱も残り、自分たちは世界に食らいついていけるという意識もあってよかったと思うけど、10年のアジア大会からはバトンミスも出たりと、少し低迷期間もあったと思います。リレーがクローズアップされすぎて、個人の走力を上げるよりリレーメンバーに入ればメダルを獲れる、という価値観になってしまった状況も良くなかった。でも12年ロンドン五輪で山縣亮太くんが10秒07の自己新を出して準決勝に進み、翌年には桐生祥秀くんが10秒01を出してからはみんなの意識がガラッと変わりました。それまで10秒0台を出した選手はポツポツいたが、みんな自分の目標としてあまり意識できていなかった。でも世界の強豪がひしめく五輪で山縣くんが10秒0台を出したり、高校生の桐生くんが10秒01で走ったことで、代表クラスの選手にも衝撃が走った。それで全体的な走力もあがってきました」

 バトン技術を高めるとともに、個人でも活躍しようという意識になった選手たちが揃ったことで、これまでずっと破れなかった殻を一気に破ったのではないかと朝原氏は言う。その中で選手やスタッフたちが求め始めていたのは並走してのパスではなく、オーバーハンドのような利得距離を得る改良型のアンダーハンドパスだった。

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