燃え殻さんに影響を与えた担任教師 魅力的な朗読と雑談…今も心に残る一言とは

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「人間の取り扱い説明書」を示してくれた担任教師

 7月29日に2作目の小説『これはただの夏』(新潮社)を上梓した燃え殻さん。40代の「ボク」と、「反則レベル」の美女と、10代の女の子の一瞬の交錯。未だに此処ではない何処かを夢見てしまうあなたに贈る、「ただの夏」を巡るお話だ。刊行を記念して、燃え殻さんが周囲で起きる‟滋味あふれる雑事”を綴った「週刊新潮」の連載エッセイ「それでも日々はつづくから」より、厳選のエッセイを公開。

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「じゃ、教科書は閉じてください」

 小学5年の時の担任教師、北村先生はとにかく型破りな人だった。授業を早々に切り上げて、最近の自分のおすすめ本を朗読したり、雑談することが日課だった。授業をまったくやらないわけではないから、朗読の物語は宙ぶらりんのままチャイムの音を聞くことになる。北村先生は、登場人物になりきって、情感たっぷりに朗読するので、クラスの大半は途中から北村先生の世界に引き込まれていってしまう。

 ある時は中世ヨーロッパの拷問の話。またある時は明治時代の遊び人の一生。江戸時代の拷問の話は特に生々しくて怖かった。僕が憶えているものに偏りがあるのかもしれないが、拷問多めだった気がする。物語はここからだ!というところで、チャイムが鳴る。クラスから、「ええええ」という本気の嘆きが漏れる。そして北村先生は、「図書室にあと1冊あるから、興味ある人はどうぞ。では日直」とまとめて、日直の号令が終わるやいなや、図書室にみんなダッシュしたものだった。

 北村先生の、ぼんやりした雑談も好きだった。よく季節の話をしてくれた。春から夏に変わるグラデーションのような、とある一日を北村先生は語ってくれた。夏から秋へ移行する少し物悲しい夕闇についても話してくれた。バレンタインデーでも大晦日でもない日の深夜に起こった不思議な出来事。親とのこと、にわか雨の匂いについて、授業を中断して話してくれた。

 僕は世の中にはまだ名前のついていないもの、出来事、自分の中の感情があることを教えてもらった気がする。その気持ちを示す言葉を知らないと、だんだんと悶々としてそのうち気づかなくなってしまうことも教わった。不定期で設けてくれたその雑談は、僕にとってはまるで人間の取り扱い説明書を聞いているようだった。

体育倉庫の落書きを消しながら北村先生が放った一言

 校庭の隅にある体育倉庫に、スプレーで派手な落書きがされていたことがあった。その頃、近くの高校生や暴走族が、僕たちの小学校に夜中に入り込んで、窓ガラスを割ったり、いたずら書きをする事件が何度かあった。朝礼で校長先生が、そういった行為は決して許されることではありません、と話していたのを憶えている。夕方くらいまで、ドッヂボールに夢中になっていた時に、それらしい高校生の集団と出くわしたこともあった。ものすごく大人に見えて、ものすごく威圧的だった。

 体育倉庫に派手な赤のスプレーで落書きがされた翌日、北村先生はシンナーを使って雑巾で黙々と落書きを消していた。僕たちが先生に近づくと、「くっせーぞ」と笑いながら、シッシッ、あっちへ行け、と手でやった。僕たちの誰かが、「消しても、どうせまた書かれちゃうよ」と先生に声をかけた。先生はこっちも見ずに、声を出して笑いながらしゃがむと、また黙々と拭きはじめた。拭きながらふいに、「消さないと、また書けないだろ」と、やはりこちらも見ずに笑って言った。

 僕は多分、もうあの頃の北村先生の年齢を超えてしまっている。チャイムが鳴ったらダッシュで図書室に走って行きたくなるような物語を、いつか書いてみたいと密かにずっと思っている。

燃え殻(もえがら)
1973年生まれ。テレビ美術の制作会社勤務のかたわら、WEB連載の小説で注目を集める。その書籍化、『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社)がベストセラーに。

2021年8月3日掲載

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