歴史に残る死闘で金メダル 柔道「新井千鶴」の意外すぎる素顔

スポーツ 2021年8月2日掲載

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 コーチボックスに向けて左の握りこぶしを突き出すと、新井千鶴(27・三井住友海上)はにっこり笑った。決勝でオ-ストリアのM・ポレレスから早い段階で尻もちをつかせて「技あり」を取ると、息もつかせずに攻め続ける。袈裟固めでほとんど押さえ込みかけていたところで試合時間の4分が消費され、「ゴーン」と終了のドラが鳴っていた。全く危なげなかった。

 主審から勝ち名乗りを受けると、ポレレスと抱き合って何やら言葉を交わし、畳を降りると「嬉しい。その一言です」と万感の様子。そして「苦しいことの方が多かったが、諦めずにやってきて報われた瞬間でした。最高の気持ちです」などと語るうちに、次第に涙が流れてきた。

 実力者ではあったが「絶対王者」などと形容されてここまで来たわけではない。

 2016年のリオデジャネイロ五輪は最有力候補だったが、直前の体重別選手権で田知本遥に敗れて代表を逸し、悔し涙に暮れた。リオには行ったものの、田知本の金メダルの活躍を観客席から見守るしかなかった。

「(代表になる)覚悟を持っていなかった」と反省、悔しさをばねに2017年、18年の世界選手権は連覇し、「一番手」を見せつけた。しかし東京で行われた19年の世界選手権や大阪でのグランドスラムでは敗退した。20年2月のドイツでのグランドスラムで優勝して東京五輪代表になったが、今年5月にカザフスタンで行われたグランドスラム大会では22歳のロシアの新鋭、マディナ・タイマゾワに敗北している。そして今回の武道館では準決勝でこの難敵とぶつかったのだ。

「参った」をしなかったタイマゾワ

 タイマゾワは左組の新井とは「喧嘩四つ」になる右組み。力強い袖釣り込み腰や背負投げ、内股を得意としている。さらに軟体動物のように体が柔らかく、新井が得意の寝技で何度も「押さえ込み」に行くが体を捻って逃げられる。

 新井の必殺技である内股が炸裂し完璧に投げたと思われた場面、タイマゾワは頭から畳に真っ逆さまに落ちた。それでも背中は畳につかない。逆に勢い余った新井が背中から落ちてしまい、返し技と受け止められないかとひやりとさせられた。これは映像判定になり、セーフだった。その後も一進一退の攻防が続く。新井がタイマゾワの腕の関節を取り、審判が「一本」を宣告した。しかしタイマゾワが「私は参ったなんかしてないわよ」とばかり抗議すると「一本」が取り消される場面もあった。普通なら折れてしまいそうな腕の状態だったが信じられないほど関節が柔らかかったのだ。

 攻め負けなかった新井は、腹ばいになった相手を立たせずに上から攻め、「送り襟締め」で攻撃する。次第に相手が動かなくなり、審判が「一本」を宣告した。しかし新井が体を放してもタイマゾワは全く動かない。救護班が腹を押すなどして意識を取り戻した。完全に「落ちて」いたのだ。ここまで16分41秒の死闘だった。この壮絶な準決勝は女子柔道の歴史に残るだろう。

 一般に欧米人は日本人より「落ちる」ことを怖がるとされる。キリスト教の宗教的な理由だともいう。「落ちる」とは柔道の締め技、送り襟締めで失神してしまうことだ。これは呼吸ができなくなるのではなく、自分が着ている柔道着の襟で首の両横を締め付けられ、頸の血管が締め付けられて脳に行く血液や酸素が不足して意識を失うことをいう。

 締められると畳を手で叩くなどして「降参」の意思表示をするが、欧米選手はたいてい日本選手より早く「参った」をする。締まってもいないうちから降参することもある。しかし「参った」をしないからといって放置していれば命にもかかわる。審判が「落ちた」と判断すれば一本を取る。今回、タイマゾワは「参った」をしなかったようだ。

 柔道がわからない人はどうしたのかと思っただろう。「落ちる」ような光景はオリンピックでは滅多に見ないし、女性がここまで戦うことに驚かされる(筆者などは学生時代、締め技や関節技に入られると決まらないうちから「参った」をしていたものだ)。

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