ポール牧は一万円札を全部千円札にして財布を厚くしていた…元ゆーとぴあ・ホープの 「昭和芸人回顧録」

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 最近は大きな借金がある芸人が脚光を浴びる。破天荒な芸人も。大半の芸人が優等生だからだろう。昭和の芸人は違った。まるで皆で無軌道ぶりを競っているようだった。故・ポール牧さん、故・レオナルド熊さんら懐かしい芸人たちの素顔を芸歴53年の元ゆーとぴあ・ホープ(71)が振り返る。

「昭和の芸人は今とはまるで違いました。ハチャメチャ。演芸場の出入り口で借金取りが待ち構えているなんてことは日常茶飯事でした」

 そう語るのは2008年に解散した元ゆーとぴあのホープ。ゴムパッチン芸や「よろしくねっ!」のギャグなどで一世を風靡した。現在はマルチチレントの中村ゆうじ(65)らと一緒にステージに上がっている。

 お笑い界入りは1968年。漫才コンビ「富士ホープ・ピース」のホープとしてデビューした。ビートたけしより2歳年下だが、「ツービート」の結成は1972年なので、ホープのほうが先輩。そんなことから、「タケちゃん」「ホープちゃん」と呼び合う親しい間柄だ。

 ツービートは1970年代後半、爆発的人気となった。すると、芸人の先輩であるポール牧さんは自分の日劇ミュージックホール(東京・有楽町、1984年閉場)での座長公演に客が入らない時、たけしを呼んだ。

「途端に客で溢れ返るわけですよ」(ホープ、以下も特に断りがない限りカギ括弧はすべて同)

 もちろんポールさんもそれが狙いだった。

「ところがポール師匠は僕たち後輩に向かって、『たけしを俺の芝居に出してやったんだよ』と胸を張るんですよ(笑)。愛すべき見栄っ張りでした」

 見栄は酒が入るとスケールアップした。

「『みんな、金に困ったら、いつでも俺のところ来いよ』と豪語するんです。それで誰かが本当にポール師匠の自宅へ訪れると、『金が入るのは明日だから、その後にしてくれ』って言うんです。翌日訪ねると、今度は『ごめん。明日だった』って。その繰り返しでした(笑)」

 財布を常にパンパンにしておかないと気が済まない人で、蓄えが少なくなると、1万円札をすべて1000円札に両替し、それを財布に入れた。厚みが10倍になるからだ。

「舞台上でも見栄っ張りなのは変わりません。ある市民ホールでの舞台前、引き連れてきた弟子や後輩に対し『いいか、俺の芸をよ~く見て、よく勉強しろよ。芸とは泣かせる、笑わせるだからな』って言うんです」

 ポールさんが故・関武志さんと組んでいた「コント・ラッキー7」の舞台だった。ところが始まってみると、まるでウケない。そもそも政治家の後援会が催した集会のショーで、客はラッキー7を見に来たわけではなかったのだ。

「それでも舞台が終わると、『どうだ、ウケてただろう。おまえたちも感動しただろう?』って、しつこく聞くんです。みんな『はい』と答えるしかありませんよ」

 とはいえ、好人物だったのは間違いない。

「後輩たちを連れて飲みに行くと、1000円札で厚くなった財布を一行の誰かに渡し、『これで払ってね』と言ってくれたものです」

 1979年にレオナルド熊さんが石倉三郎(74)とコンビを組むことになると、ポールさんは「よし、俺が名前を考えてやる!」と言い、「ラッキーパンチ」と命名した。

 熊さんと石倉の芸名も付けた。熊さんはラッキー熊、石倉はパンチ三郎だった。さらにお祝い金として、2人に5万円を渡した。

 もっとも、ラッキーパンチは1年足らずで解散してしまう。おまけに熊さんも石倉もポールさんからもらった芸名を嫌がり、捨ててしまった。分からないでもないが…。

 さらに熊さんは石倉とは違う相方と組み、ポールさんに断りなく「コント・レオナルド」を名乗った。

「これには怒ってましたね」

 エピソードが尽きないポールさんは、東京のお笑い界を語る上で欠かせない存在だったが、2005年に自宅マンション9階から飛び降り、自死してしまう。動機についてはさまざまな説が飛び交ったものの、はっきりしない。63歳だった。

シビアだった「レオナルド熊」

 一方、「芸人としては天才的だった」と評判高いが、横暴なところがあったため、26人もの弟子兼相方に去られた人もいる。前出・レオナルド熊さんである。

 ホープも1971年に弟子兼相方となり、それから3年間、2人で「コント三冠王」として活動した。当時の熊さんの芸名は熊田にげろうだった。

「すげー芸名だと思いましたよ。その前は北海の熊でした」

 出会ったのは東京・渋谷のストリップ劇場。当時はストリップの合間に漫才やコントを見せるのが当たり前だった。

「劇場に行き、ステージに目をやると、腹巻きをしたおじさんが客とケンカしていた。それが熊さんでした。ヤジを飛ばす客に向かって、『お前なんか金やるから帰れ!』って怒鳴っている。『俺の言うこと聞かないと、ストリッパーは脱がないぞ!』とも。芸なのか素なのか分からない人でした」

 直後に熊さんに誘われ、弟子兼相方となるが、日当は500円。一方、熊さんは3500円だった。大きな開きがあった。

「芸を教わる立場のうちは、そういうものだと考えられていた時代でした」

 それにしても熊さんはシビアだった。ホープは自宅に呼ばれ、食事を出してもらったので、ご飯のお代わりをしようとした。すると、熊さんは「えっ、おまえ2杯も食うの。芸もないのに。いや、驚いたねぇ」と嫌味を言った。

 コンビ解消後もシビア。熊さんが東京・大塚にスナックを出したことを知らせる案内状が届いたので、「来いということだな」と思い、挨拶に出向き、1万円を入れたご祝儀袋を渡した。すぐに退散しようとしたところ、熊さんから「ゆっくりしていけよ」と押しとどめられた。

「直後から熊さんが周囲の客に酒を振る舞い始めたんですよ、みんな僕の勘定になっていました(笑)。祝儀とは別に2万円以上取られましたよ」

 それよりホープが驚いたのは、カウンターの中で生魚などを調理していた板前風の青年が、熊さんの弟子の一人だったこと。

 熊さんは客に向かって「コイツは京都の料亭で修業を積んだんですよ」などと吹聴していたが、もちろん大嘘である。調理師免許すら持ってなかった。ホープは熊さんから「おまえも刺身食べるか?」と尋ねられたが、固辞した。

 一方、熊さんと石倉とのコンビ仲が良くなかったのは有名な話。2人はラッキーパンチ解散後、1981年に再びコンビを組んだが、石倉は熊さんの横暴に辟易していた。熊さんが石倉の目を盗み、違う相方と組み、勝手に営業することなどがあったためだ。

 2人の間の溝はついに埋められなくなり、コント・レオナルドは1985年に解散。その後、熊さんは役者に転身するが、1994年に膀胱ガンで他界する。59歳だった。

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