「大人のADHD」安易な診断、薬物治療は禁物? 先天的以外の原因は

国内 社会 週刊新潮 2021年7月15日号掲載

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「あれっ、ない!」「えっ、もう過ぎてます?」。物忘れに遅刻、自分はもしかしたら病気なのだろうか……。近年、「大人のADHD」が注目されている。だが、安易な診断は禁物だ。原因を見誤ると我が子にも影響が。

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 片付けができない。

 忘れっぽい。

 なくし物が多い。

 よく遅刻してしまう……。

 すでに立派な「いい大人」であるのに、まるで小学生のように「生活の基本」がなかなか守れない。

 あなたの職場にこのような同僚はいませんか? あるいは、もしかしたらあなた自身が、会社の机を整理できず、会議にしょっちゅう遅れてしまうことに悩んでいませんか?

 近年、こうした大人たちをこうカテゴライズする機会が増えています。

「あの人は発達障害だから」――。

 ADHD(注意欠如・多動症)やASD(自閉スペクトラム症)などの症状で知られる発達障害の診断に関して、臨床医である私は最近、異変が起きていると感じています。

「ADHDと診断され、薬も処方されているのに良くならない」

 こう訴え、私のところにセカンドオピニオンを求めてくる「大人」が急激に増えたのです。

 この現象に、私は「違和感」を覚えています。

 従来、ADHDは遺伝や妊娠中の飲酒・喫煙などの周産期のトラブル等、生まれ持った生物学的要因による神経発達障害とされてきました。その結果、多動や不注意、衝動性などの症状が出る。

 このような障害が子どもの発達段階で起きるものと考えられていたわけですが、それが今では多動や不注意で悩む大人にも広がり、ADHDと診断されることが増えているのです。「大人のADHD」です。

 この状況は、あたかも「発達障害診断バブル」「ADHD診断インフレ」とでも呼ぶべき状況です。しかし、ここは冷静になって考えてみる必要があります。

 多動や不注意。つまり、うっかり忘れ物をしたり、つい遅刻してしまう――。

 これらは、程度の差はあれ、誰にでも起きることでもあります。

 一体、どれくらいの頻度で忘れ物をするとADHDと言えるのか、月に何回遅刻したらADHDなのか。客観的な診断の基準はなく、しかも、診断の決め手になる検査も存在しないため、「忘れ物がひどくて困っています」という主観的な訴えで、事実上診断が行われているのです。

 そして、ADHDと診断された人に投薬治療が行われるケースが少なくありません。生まれつきの神経障害なのだから薬物で改善できると。

 果たしてそうなのでしょうか。「客観的」な基準を脇に置き、「主観的」によく忘れ物をするあなたは本当にADHDなのでしょうか。

〈「岡田クリニック」(大阪府枚方市)院長の岡田尊司氏は、京都大学などでの研究の傍ら、京都医療少年院等にも勤務し、精神科医として「現場」と向き合ってきた。そして現在、自身のクリニックで臨床の場に立ち続けている。

 そんな岡田氏が感じたという異変。実際、2006年と19年の人数を比べると、通級におけるADHDの児童生徒数は15・1倍に増加し、それと並行するように「大人のADHD」も注目を集めている。しかし、「安易」な発達障害診断は、先に触れたように「不要」な薬物治療という弊害を誘発しかねない。

「ブーム」となっている感がある発達障害。我が子、そして自身がADHDではないかと悩む人が増えるなか、必ずしも世間の理解は進んでいるとは言えないようだ。〉

「特性」が「障害」に

 ADHDの特性のひとつである不注意は、言い換えれば「うっかりミス」です。日々の生活や仕事の中で、誰もがミスをすることがあるわけですが、不注意の要因とは何でしょうか。

 例えば睡眠不足。OECD(経済協力開発機構)の調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で、ワーストワンでした。睡眠時間が短ければ当然、集中力は落ち、不注意は起きやすくなります。また、継続的にストレスに晒され、長時間IT機器に触れることでも集中力は低下する。さらに、現代人はさまざまな形で脳を酷使していますから、必然的にイライラしやすくなり、衝動性も高まります。

 こうした状況で、成人の半分以上が不注意に悩んでいるというデータもあります。では、成人の半分以上がADHDなのかと言われれば、もちろんそんなことはありません。

 つまり、それほどの頻度ではない不注意や衝動性に悩み、精神科医のところに駆け込んでADHDの診断を受けるケースが増えていることになります。

 そもそも、遺伝要因等から起きる「本来のADHD」は、忘れ物が激しく、毎日遅刻するのに本人は悩んでいないというケースが多い。症状はあるのに深刻に捉えていないことが特徴とも言えるのです。

 他方、「大人のADHD」はこの逆です。あくまで「主観的な生きづらさ」によってADHDと診断され、場合によっては薬物が投与される。ADHDでよく投与されるのは「コンサータ」という薬ですが、これは、謂(い)わば、ゆっくり効く覚醒剤で、短期的には脳の覚醒度を上げ、中枢の認知度を高める効果が期待できるものの、中長期的には神経が過敏になり過ぎ、抑うつ症状や、不安障害といった弊害を起こすリスクも想定される。したがって、私は安易に投薬治療を行ってはいけないと考えます。

 たまにミスや忘れ物をしてしまう人を「普通の人」と捉えたとします。しかし、本人はその頻度をもっと少なくしたいと悩んでいる。身長で言うと、170センチのごく平均的な「普通の人」が、もっと背が高くなりたいと成長ホルモンを打ってもらうようなもの。「大人のADHD」への安易な投薬は、これと似ていると言えます。私には、この状況が適切なものとは思い難い。

 では、なぜ「大人のADHD」の概念が広がったのか。それには「勉強至上主義」が影響していると思います。昔であれば、中卒で仕事をする人も少なくありませんでしたが、昨今では高校はもちろん、多くの人が大学まで進学します。つまり、学校の勉強ができることが重視され、それが苦手なことは人としてのひとつの「特性」に過ぎないのに、「障害」扱いされるようになってしまった。「学校の勉強に集中できない子=ADHDあるいはLD(学習障害)」という構図です。これが大人にも敷衍(ふえん)され、「不注意な大人=大人のADHD」、「片付けができない大人はADHD」となっていったのです。そして、脳の「障害」なのだから薬を飲めば治せるという認識も広がってしまった。

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