大島康徳さんが逝去…見事だった熱血野球人生 「超美技」「奇跡の大逆転」、そして「執念の采配」

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「尾上が出塁してくれた」

 中日時代の1974年と82年にリーグ優勝を経験した大島さんが「最も思い出に残る試合」に挙げていたのが、82年9月28日の巨人戦だ。

 8回まで2対6とリードされ、敗色濃厚だった中日は9回裏、江川卓に5長短打を浴びせ、大島さんの中犠飛などで一気に同点とする。そして、延長10回も敵失に四球を絡めて2死一、二塁から尾上旭が四球を選び、満塁で大島さんに打順が回ってきた。

 大島さんは角三男の直球を狙いすまして中前に運び、劇的なサヨナラ勝利をもたらした。この結果、中日にマジック12が点灯。事実上、チームを8年ぶりVに導いた試合と言ってもいいだろう。

 後年、大島さんはテレビ番組でこのシーンを振り返り、「尾上がよく出塁してくれた」と粘って打順を回してくれたルーキーに謝辞を贈った。実は、尾上さんは筆者の大学の先輩にあたり、現役引退後、地元・銚子で営んでいたお好み焼き店にも何度かお邪魔していた。

 前出の番組をたまたま見ていた尾上さんは感激し、「大島さんに会ったら、よろしく言っといてよ」と伝言を頼まれた。

 正直な話、この時点で、大島さんには1度もお目にかかる機会がなかったのだが、2週間後、偶然にも雑誌の野球企画で大島さんを取材する仕事が入り、めぐり合わせの不思議さを感じた。

「心の変化が出る」

 取材の席で、大島さんから聞いた話で今でもよく覚えているのは、当時40歳を過ぎ、スタメン落ちも目につきだしたイチローについてのコメントだ。

「バッターは常時ゲームに出て、1年間のトータルの中で調子のバロメーターを合わせていく。それが出たり出なかったりということになると、“常時オレは行けるぞ”から“今日は出られるんだろうか?”と少しずつ心の変化が出てくる。その葛藤というのは、本人にしかわからない。僕はレベルの違いだとか、アメリカとの違いというのはわからないにしても、選手の気持ちとしてはわかる」

 大島さんの26年間の現役生活は、決していいときばかりではなく、出たくても試合に出られない辛さを味わったこともある。そんな山あり谷ありの野球人生を経て、数多くの試練を乗り越えてきた者だけが口にできる深みのある言葉だった。

 人生の最終章までひた向きに“全力プレー”を続けたナイスガイのご冥福を心からお祈りしたい。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮取材班編集

2021年7月5日掲載

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