「コロナを正しく恐れる」は死語に…東京五輪は憂さ晴らしの標的になっていないか

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 日本では3度目の緊急事態宣言が発令されているが、これまでと異なり、その効果が劇的にあらわれてこない。全国の重症患者数は過去最高を更新し続け、医療現場の逼迫はいまだに解消されていないが、各国から流入する変異株のせいだと言われている。

 メデイアは「現在流行している新型コロナウイルスは過去のウイルスと別物である」と主張する医療関係者の声を伝えるなど連日のように危機感を煽る報道を続けているが、「コロナ騒動は行きすぎである」と考える医療関係者が増えてきているのも事実である。

 一例を挙げれば、井上正康・松田学の共著による『新型コロナが本当にこわくなくなる本』((方丈社)が5月上旬に出版されたが、新型コロナウイルスに関する最新の情報がわかりやすく解説されている好著である。

 多くの日本人は「新型コロナウイルスに感染すると急速に呼吸困難に陥る」との恐怖を抱いているが、そのメカニズムがかなりわかってきている。著者の1人である井上正康・大阪市立大学名誉教授(分子病態学が専門)は「新型コロナウイルスの感染によって誘起された間質性肺炎像が消化管で生じた血栓が原因であるという発見は、今回の重要な医学的成果の一つである」と指摘する。新型コロナウイルスは最初に腸などの消化管に感染して小さな血栓を生じさせるが、これが血管を通って肺に集まると肺の血管が詰まる。これがCT検査で現れるスリガラス状の肺の画像の正体(間質性肺炎)である。その後免疫の暴走が引き起こすサイトカインストーム状態になれば、肺が多くの血栓で詰まって呼吸が苦しくなり、人工呼吸器を用いて酸素を送り込むことが必要となる。

 新型コロナウイルスの治療薬は未開発であるが、間質性肺炎は血栓が原因で起こっていることに気づけば、感染の初期段階での有効な治療法が早期にみつかる可能性が高まる。血栓ができるとこれを溶かすタンパク質分解酵素の代謝が活性化されることから、血栓ができにくくするためには、タンパク質分解酵素の阻害剤の投与が有効だからである。

 著者は「すべての日本人が一刻も早く健康な日常生活を取り戻してほしい」と願っているが、社会的な動物であるヒトは、交流の機会が極端に減るとうつ状態になり、前向きな発想をすることが困難になる。このような心理状態では理性に訴える科学的な議論は無力であると言わざるを得ない。コロナ禍の初期にメデイアは「正しく恐れる」ことを強調していたが、その後1年が経った現在、このフレーズは死語になってしまった。

 コロナ禍のコミュニケーション不足から生じたメンタル不調を抱える人はしばしば「憂さ晴らしのための攻撃対象を求める」とされているが、筆者は「その標的が東京五輪になってしまったのではないか」と危惧している。

今こそ世界的なスポーツ大会を

 国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が22日「(東京五輪開催を実現するためには)我々はいくらかの犠牲を払わなければならない」と発言すると、日本国内で批判が一斉に湧き起こった。野党の有力政治家が「命を犠牲にしてまで五輪に協力する義務は誰にもない」と発言したと伝わっているが、残念でならないのはオリンピックのそもそもの意義についての議論が日本国内で決定的に欠けていることである。

 現在のオリンピックが、古代ギリシャで行われていたオリンピックに起源を持つことは周知の事実である。ポリス(都市)間の戦争が絶えなかった古代ギリシャでは、オリンピックの開催中は全土で休戦協定が結ばれていた。スポーツが成立するには、競技者の間で一定のルールが共有されていなければならない。一定の信頼関係の下で競技を行うことは、政治的には敵対する国々を一つに結びつける潜在力を持っていることから、オリンピックは戦争を回避する性格を有している。「平和の祭典」と呼ばれるゆえんである。

 夏季オリンピックは100年以上の歴史を持つが、その間に中止を余儀なくされたのは、第一次世界大戦中の1916年のベルリン大会、第二次世界大戦中の1940年の東京大会と1944年のロンドン大会の3回のみである。「スペイン風邪」がいまだ猛威を振るっていた1920年のベルギーのアントワープ大会は無事開催されている。

「オリンピックはIOCや一部の政治家、スポンサー企業などの金儲けの手段だ」との批判が根強いが、新型コロナウイルスのパンデミックのせいで世界各地で国内外の分断が進んでいる今こそ、人々に興奮と感動を与え、怒りと暴力を抑制することができる世界的な総合スポーツ大会が不可欠なのではないだろうか。

 前述の井上氏はコロナ禍の当初から「日本人の死生観が問われている」と述べているが、筆者を含め現在の日本人が「自分の身の安全」を極端に重視するのは、戦後の日本社会に死生観が欠如していることが関係していると思えてならない。

 現在の日本社会の安全度は世界トップクラスである。多死社会が到来しているのにもかかわらず、戦争や殺人、突発的な事故などによる「不条理な死」の割合が極端に低下していることから、「死」は社会から排除され、隠蔽されたままの状態が続いている。そのしわ寄せを受けているのは医療現場である。「死=敗北」という価値観の下で過度の延命措置が採られるなどのひずみが現在も続いている。

 ユング派精神分析学者の大家である河合隼雄はかつて「もともと日本人は死ぬことばかり考えてきたが、戦後は戦争中の反動で、生きる方に極端に振れ、死を考えない珍しい時代となった」と語ったが、私たちはその伝統をもう一度思い出し、「死」についてオープンに語る時期に来ているのではないだろうか。

 戦前のように「大義に殉じろ」と主張する意図は毛頭ないが、死を意味づけられない文明は滅びる。コロナ禍の日本は大きな岐路に差しかかっている。

藤和彦
経済産業研究所コンサルティングフェロー。経歴は1960年名古屋生まれ、1984年通商産業省(現・経済産業省)入省、2003年から内閣官房に出向(内閣情報調査室内閣情報分析官)。

デイリー新潮取材班編集

2021年5月31日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。