水戸学を抜きには語れない「青天を衝け」、第9話「桜田門外の変」の思想的背景は

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将軍を恐れない光圀

 尾張藩、紀州藩と並び、徳川御三家でありながら、将軍より天皇を崇めるとは、ちょっと奇異な感じもするが、その理由は御三家の中で水戸藩が格下で不遇だったためという説もある。

 光圀は名君として知られた。藩内で水道を開設したり、貧民を救済したり。にもかかわらず、頼房の代から幕府によって不遇を強いられたため、将軍より正当な最高権力者である天皇を崇めたというわけである。

 事実、水戸藩の石高は御三家の中で一番低かった。光圀が副将軍だったというのも実は講談師による脚色であり、そんな役職は存在しない。

 水戸徳川家の人間が将軍の座に就いた例もなかった。このため、慶喜も徳川御三卿の一橋家に養子になるまで将軍候補に入っていなかったのは第1話で描かれた通りである。

 藩が格下で不遇だったから水戸学が生まれたという説の真偽は定まっていないが、光圀が将軍を恐れていなかったのは確か。綱吉が5代将軍になり、天下の悪法「生類憐みの令」を出すと、これに激怒し、ただちに停止するよう強く諫めた。

 光圀による水戸学は前期、斉昭によるものは後期に分類されている。尊王は前期も後期も一緒だが、攘夷を打ち出したのは後期から。1825(文政8)年、幕府が異国船打払令を出した後だ。時流に合わせたものだった。

 今では知らぬ人も珍しくない後期水戸学だが、幕末期は決して少数派の学問ではなく、全国に広まっていた。

 西郷隆盛(薩摩藩)も影響を受けた。藤田東湖を師と仰いだ。西鄕は東湖の人間性にも心酔した。

 東湖の人柄の一端は第5話で描かれている。ロシア船が下田で転覆したと聞いた斉昭は「神風が吹いた!」と大喜び。だが、東湖は主君を諫める。

「異国人とて国には親や友がありましょう。誰しも、かけがいのない者を天災で失うのは耐えがたきこと」

 西鄕の「敬天愛人」は東湖の教えから生まれた。

 尊王攘夷派の思想家だった吉田松陰(長州藩)もまた影響を受けた。吉田は1人の君主にのみ権威と権限を認め、ほかの人民の間には一切の差別と身分差を認めないとする一君万民論を説いたが、その源流は水戸学だろう。

 その後、2人は非業の死を遂げる。西鄕は負けるべくして負けた西南戦争の全責任を取る形で自刃。吉田は江戸の評定所で大老・間部詮勝の暗殺計画を告白したことから死罪に。水戸学には悲劇の臭いが付きまとう。桜田門外の変の実行犯18人のうち2人を除いて全員死んだ。

 それでも後期水戸学は幕末の男たちの胸に響いた。1840(天保11)年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれた栄一も水戸学に傾倒した。1864(文久4)年慶喜に取り立ててくれるように懇願したのも慶喜が水戸藩の出身だったことが大きい。

「どうか、どうか、この渋沢をお取り立てくださいませ」(第1話)

 ただし、実は慶喜はこの2年前の1862(文久2)年、幕議で開国論を説いている。それどころか、斉昭の攘夷も1853(嘉永6)年のペリー来航の時点で建前になっていたという見方が強い。

 背景には隣国の清が1842(天保13)年にアヘン戦争でイギリスに大敗したことがある。これに幕府は強い衝撃を受け、異国船打払令を緩和。攘夷は現実的ではなくなっていた。

 ペリー来航後、幕府の海防参与に任じられた斉昭は強硬な攘夷論を口にしたが、これは危機感を煽り、国防意識を高めるためだったというのが定説だ。

 慶喜が開国論を説いた翌1863(文久3)年、尊王攘夷運動が盛んだった長州藩は下関海峡を通る米商船などを砲撃。逆に4ヵ国連合艦隊に猛反撃されてしまう。やはり攘夷には無理が生じていた。

 水戸学は事実上、尊王の部分だけが残った。そして水戸学を信じる志士たちは倒幕に向かった。武力で悪政を続ける幕府を倒し、天皇中心の新しい政府をつくることを目指した。

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