「見た目で人を判断するな」の声に『人は見た目が9割』著者はどう答えるか

国内 社会 2021年3月26日掲載

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とてもややこしくてデリケートな「見た目」問題

「人を見た目で判断する」ことの是非はよく話題になる。

 特に「見た目」にまつわるニュースの際に、こうしたことは議論になりやすい。

 デイリー新潮では先日(3月5日配信)、菅首相の長男の「ヒゲ問題」を扱ったことがある。

 サラリーマン(役員)が長髪、ヒゲの場合、相手にどういう印象を与えるのだろうか、というテーマの記事である。

 この記事を取り上げたTOKYO MXテレビの「バラいろダンディ」では、コメンテーターの武井壮が「ヒゲを生やすのはその人の自由じゃないか。この人の問題は問題として、そういうふうに見た目でどうこう言うほうがおかしい」という趣旨のことを語っていた。

 一方で、元の記事のネット上での反応を見ると「あのヒゲとロン毛を見た時点で、怪しいと自分なら思う」といったコメントも目立った。

 しかし、「ルッキズム(外見至上主義)」といった言葉も使われる時代となり、渡辺直美の容姿侮辱の件ひとつとっても、とてもややこしくてデリケートな「見た目」問題。どのように考えればいいのだろうか。

「見た目で差別してはいけないけど、判断基準に『見た目』を持つことや、自己演出の際に『見た目』を考えることは大切です」

 そう語るのは、ミリオンセラー『人は見た目が9割』の著者で、劇作家・演出家の竹内一郎さんだ。「見た目」に関するコメントを求められることも多い竹内一郎さんに話を聞いてみた。

――「人を見た目で判断するな」と「実際には判断している」とどちらが正しいのでしょうか。

竹内:この種の論争は、論点がずれていることが多いのです。結論から言えば、どちらも正しいのではないでしょうか。

 まず、他者を「容姿」で明らかに差別することは極力慎むべきだ、というのは当然でしょう。何らかの事情で、人と異なる容姿を持つ人もいますが、そういう人を差別することは決して許されません。

 また日常生活でも、容姿のいいお客さんにはたっぷりサービスをして、そうでもない人には最低限のサービスを、なんてお店は許されないわけです。

 とはいえ、お店側にも一定の裁量はあるわけで、見るからに他のお客さんに不快感を与えそうなお客さんを断ることもあるでしょう。ある種のレストランのドレスコードはそういう観点から定められています。

 社員やアルバイトの採用などでも、容姿が一定の判断材料になっていることは否定できません。

 明らかに法の下の平等に反するとか、社会常識に反するような扱いの差別はあってはならないものの、現実の社会ではある程度の「差」は存在する。これは事実です。

 また、個人の判断のレベルになれば、より一層「見た目」が影響しているのは間違いありません。誰しも自分なりの経験則を持っています。「こういう人は信用できない」とか「こういう人は相性が合わない」とか。その判断材料に「見た目」を置く人が多いのも事実です。

相手がどう受け止めるかのコントロールは難しい

――でも、武井さんはそういう判断の仕方自体に問題がある、と指摘していたのではないでしょうか。つまり「ヒゲと長髪だから怪しい」というのはおかしい、と。

竹内:私も「サラリーマンはヒゲや長髪にすべきではない」とはまったく思いません。それもまたその方の自己演出のための戦略でしょうから。

 ただ、そのような個性の見せ方を選ぶ以上は、どう受け止められるかを計算したうえでなさったほうがいいだろう、とは思います。面と向かった相手がどう受け止めるかのコントロールはとても難しいのです。

 たとえば「ヒゲと長髪」では「独創性」や「ワイルドさ」「フリーっぽさ」は演出できるかもしれません。一方で「地味」「保守的」といった印象を相手に与えるのは難しいでしょう。人によっては「怪しい」と思う可能性も否定はできない。「首相の長男なのにフランクな面白い人だな」と思う人もいれば、「首相の長男なのになっとらん」と思う人もいます。

 どう感じるかは自由なので、それを「おかしい」と言っても仕方がないのです。

――武井さんが言いたかったのは、「見た目」で判断することの危険性もあったのでは? つまり「真面目そうな見た目」だから「真面目なはず」という短絡的な考え方はかえって危ないということでしょう。

竹内:その点が、私の本(『人は見た目が9割』)でも常に誤解されてきた点です。

 少なくとも私は「見た目」を「ルックス」「容姿」という意味では用いていません。本では「見た目」とは「言葉」以外の情報、つまり「非言語情報」の総称としました。

 たとえば「声色」「イントネーション」「目つき」「匂い」「身のこなし」「間の取り方」「癖」等々、膨大な非言語情報をまとめて「見た目」と称してみたのです。

 実は人が相手から受け取る情報のうち、「言葉そのもの」が印象に与える割合はことのほか少なくて、「見た目(非言語情報)」が圧倒的に多いのです。それが「見た目が9割」という言葉の真意です。

「あの政治家の言う事は正しいかもしれないが、どうも信用できない」

 そんなふうに感じたことがある方は少なくないでしょう。

 ただ、最初に述べたように見た目での差別は許されませんから、多くの場合、そうした判断をするにしても個人の内心にとどめておくのが常識ですし、ほとんどの人がそうしていることでしょう。人間も動物の一種ですから、理屈(言語情報)とは別に、個人の判断基準として「見た目(非言語情報)」が含まれるのはむしろ自然なことです。

 そうでないと、弁が立つ人の言う事ばかり聞いてしまうことになる。しかし、詐欺師というのは、一見見た目も良く、言う事も理路整然としているものです。

 では、どこで怪しいと思うか。

 たとえば「あまりに立て板に水だ」とか、「質問された際、目が泳いだ」とかさまざまな「見た目(非言語情報)」をもとに人は判断するのです。

「あなたは長髪でヒゲだから怪しい」などと他人に面と向かって言うのは倫理観に反します。しかし、そのようなルックスにするのであれば、そんなふうに思われるリスクを考慮したほうが望ましい。「見た目で判断するのは間違いなのだ」と正論を述べても誰も説得できないでしょう。

 また、差別をしないためにも、「自分は無意識に容姿で人を判断してしまってはいないか」という気持ちを常に持っておくことは大切です。

 その意味で「人を見た目で判断するな」と正論を言う人に、ちょっと危惧を感じることもあります。あなたは本当に普段そういうことをしていないのですか、と。

美人、イケメンで得する時期は短い

――でも結局は美人やイケメンが得をする世の中なのでは。つまり文字通り「見た目」が9割なのでは?

竹内:「見た目」を皮相的に捉える人はそういう考え方をします。この問題は、新著『あなたはなぜ誤解されるのか―「私」を演出する技術―』でも触れました。

 長年、演出家をやってきた経験で言えるのは「美人、イケメンで得する時期は短い」ということです。

 昭和を代表する演劇評論家の戸板康二(といたやすじ)さんは、次のように述べています。

「子供の時分から身辺に見て来た中で、『あの子は美しい』といわれて育った娘で、幸福にめぐまれた女性よりも、逆の運命を辿った女性のほうが、どうも多いような気がする」

「美しい女優で、ことに目立つのは、わがままなことである。傲慢なのもいる。周囲へのいたわりが欠ける」

 私も40年以上演劇界にいますが、同感です。

 美人だと芝居ができなくても、それなりに「可愛い子」の役をもらえたりします。そこで満足して努力せず、傲慢になってしまう人もいるのです。

「いや、〇〇さんや〇△さんはずっと美人女優をやっているよ」

 そう感じさせる女優も確かにいます。しかし、そういう方は単純な美貌以外の“武器(演技力、教養、人柄など)”を手に入れている人です。美人、イケメンだらけの芸能界で長く生き残っている人は、ルックス以外の強みを必ず持っているものです。

 スターの地位を維持するには、実力を蓄えておかなければなりません。別の言い方をすれば、美人で得をしているうちに、何らかの蓄えをしておかないと、見た目で恵まれない分、必死で武器を得るべく努力していた人と、魅力の総量が逆転してしまいます。

 女性でも男性でも、一流の「脇役」は仕事が途切れません。近年注目が高まっている名バイプレイヤーとされる人たちは、みんな必死で武器を得るべく努力してきた人です。だから彼らの技は長持ちします。

 演劇など芸能の世界でなくても似たようなことは言えます。

必要なのは「自分を演出する」という視点

 逆に言えば、美人やイケメンではなくても、別の「見た目」でいくらでも印象を良くしたり、誤解を減らしたりする工夫はできると思います。実社会で好感度が高い人、信頼されている人は必ずしも美人やイケメンではありません。しかし、言葉以外のところから発される情報全体がその人の印象を良くしています。

 誰にとっても必要なのは「自分を演出する」という視点です。「自分がどう見えるか」「自分をどう見せたいか」を意識している人とそうでない人は、社会に出て20年も経つと、大きな差ができているものです。

デイリー新潮編集部