津波被災地の“異様”な夜の光景 カメラマンが見たものとは

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大型漁船の異様な姿

 震災から数週間後、被災地は復興へと大きく動き始めていた。が、夜になると昼間の喧騒とは裏腹に、街は沈黙に包まれる。夜の被災地を撮り続けたカメラマンが見たものとは――。

(「週刊新潮」別冊「FOCUS」大災害緊急復刊より再掲)

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 3月11日以来、深くて安らかな眠りは誰にも許されなくなった。避難所の硬い床に身を丸める被災者にも。そして、その苦難がわが身に起こっていたかもしれないと考える人々にも。誰にも悩みはあったにせよ、あの日までは目が覚めれば日常があった。しかし、親しい人々や家財が流されて、あるいはそんな映像をたびたび見続けて、誰もが醒めない悪夢の淵に落ちてしまった気がする。夢なのか現(うつつ)なのか、判然としない世界……。

 3月27日午前3時。宮城県気仙沼市の中心部は、濃い暗闇の下にあった。地震と津波から16日もたったのに、日中、自衛隊は遺骸を何体も収容した。気仙沼では650人を超える方々が亡くなり、1500人以上が行方不明である。明るいうちは復興に向け、人々が活発に立ち働くが、闇が訪れると、まだ不明者が残されているかもしれない瓦礫に弱い月光が降り注ぐだけ。物音の全くない鎮魂の時間となるのだ。

 一帯には、油の臭いが充満していた。大船渡線の鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅から東にカメラを向ける。長時間露光で浮かび上がったのは330トンの大型漁船「第18共徳丸」の異様な姿だ。福島県いわき市の漁業会社の所有。あの日は、年に1度の整備のため、午前中に気仙沼漁港に到着した。

「気仙沼の方々に迷惑をおかけして申し訳ない」

「一日でも入港を遅らせていればよかった。運が悪かった」と会社の取締役がいう。地震の翌日、テレビの空撮映像で船体を見つけた。人的被害はなかったが、港からおよそ500メートルも離れた街中で直立する姿に慄然とした。漁業の町気仙沼では、20トン以上の船だけでも20隻以上が陸地に打ち上げられた。この船は一見無傷だが、やはり解体廃棄せざるを得ないのか? 行方知れずとなったもう1隻と合わせて被害は3億円近い。しかし、この取締役は「復興作業が進む中、共徳丸をあのままで残しておくと二次災害の危険もある。気仙沼の方々に迷惑をおかけして申し訳ない気持ちでいっぱいです」と現地を気遣う。

 あの日、大津波は逃げる自動車を追い越す速さで、気仙沼の中心街の建造物と逃げ遅れた人々をくまなくなめ尽くした。そしてその容赦ない力を我々に忘れさせまいとするように、この大型船を陸上に残して去った。時計は午前4時をまわり、足下から不気味な冷気が体を這い上がってくる。東の空で一筋、流れ星が流れた。

 名取市の閖上(ゆりあげ)地区は、東は仙台湾、北は名取川に面した低地だ。北の仙台市に向かっては、伊達政宗公以来、運河が掘られ、海産物が運ばれた。今も質のいい赤貝が特に有名で、魚市場や造船所、海産物加工会社が立ち並んでいたのが、写真の周辺である。

 4月2日。日が落ちて、仙台市の灯りが低い雲に映り、オーロラのように青白く光っている。光を背景にしているせいで、なおさら無残さが際立つ。建物は、原形を全く留めていないが、地元の方の話では、水産加工場ではないか、とのこと。津波で骨組みだけになったところに、押し流されてきた小型船が腹から突っ込んだ。

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