ドキュメント3・11 イギリス大使館はなぜ「真実」を見抜けたか(上)

国際 Foresight 2021年3月8日掲載

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2011年3月11日に発生した東日本大震災・福島第1原発事故による大混乱の最中、イギリス大使館は放射性物質の飛散リスクなどについて的確な情報を発信し続け、外国人のみならず日本人にとっても信頼できる貴重な情報ソースとなった。その指揮を執ったデビッド・ウォレン元駐日大使への直接取材で再現する、危機対応とパブリック・ディプロマシー(広報文化外交)のケーススタディー。

   2年前の3月21日、ロンドンの日本大使公邸。多くの日英関係者が居並ぶなか、鶴岡公二駐英大使(当時)はデビッド・ウォレン氏に旭日大綬章を授与した。駐日大使(2008年~12年)を含め計3回通算13年の日本勤務と、英外務省を退職後、文化交流団体ジャパン・ソサエティ(本部・ロンドン)の会長(12年~18年)として日英関係に多大な貢献をしたとの理由だが、特筆されたのが東日本大震災での対応だった。震災に合わせた3月にわざわざ授与式をもったのもそのためだった。

   鶴岡駐英大使はこう祝辞を述べた。

「ウォレン大使は震災2日後に被災地に入り、英国人の安否確認をするだけでなく、日本人被災者を励ましました。さらに英政府が立ち上げた緊急時科学助言グループ(SAGE)の客観データーをもとに、英国大使館を東京から移したり、英国人を東京から脱出させたりする必要はないと決定しました。英国のこの日本に対する揺るぎない友好的な姿勢は2015年のウィリアム王子の被災地訪問に結びつきました」

 3・11では欧州を中心に少なくない在京大使館が放射性汚染を恐れ、大使館の機能を関西に移した。自国民を特別機で日本から大量脱出させ、また外国人の幹部や従業員が我先に帰国して、企業活動がマヒしたところも多々あった。後日、「申し訳なかった」と自国民の行動を謝罪した大使もいる。

   そうした中、最も冷静かつ的確に対応したのが英国だった。ブレることのなかったその姿勢は、応援部隊を含め200人を超える大使館スタッフを率いたウォレン氏の指導力と、同氏と本国の連携に負うところが大きい。

 同氏はジャパン・ソサエティの会長職にある時、3・11の経験を文章にまとめている。昨年、東京で詳しく話を聞く約束だったが、新型コロナウイルス問題で来日がかなわず、電話で取材した。同氏の行動を中心に英国の対応を振り返る。

被災地の英国人は600人、誰とも連絡がつかなかった

   3・11のこの日、ウォレン氏は昼、帝国ホテルでもたれたホテル創設120周年の記念昼食会に出席した。終わると、大使館に戻り、経済部の日本人スタッフ1人を連れて大使車で横浜に向かった。午後3時に日産自動車本社で英国人役員と対英投資について意見交換する約束があったからだ。英国への投資誘致は英大使の重要な仕事だった。

 大使車が同社の玄関に着き、降りようとしたその時、「ジシン!」と運転手が叫んだ。
「日本に通算13年暮らした私も経験したことのない激しい揺れだった」

   日産の役員との携帯電話はつながらない。大使館に戻ろうと運転手に告げた。大使車のテレビは尋常ならざる事態を伝えていた。しかし道は大渋滞し、東京に入ったのは夜だった。最後は動かない車を乗り捨て、皇居のお堀伝いに歩いた。歩道も帰宅する人で溢れていた。同氏が千代田区一番町の英大使館にたどり着いたのは午後9時だった。

 大使館内に入るやウィリアム・ヘイグ英外相(当時)から電話が入った。大使館スタッフの全員無事を確認した外相は、東京の状況を尋ね、津波に襲われた福島第1原発がどうなるか仔細にフォローするよう指示した。容易ならざる事態と認識した英政府も、関係省庁が参加する危機管理委員会(COBRA)を立ち上げていた。大使がベッドにもぐりこんだのは午前1時半を回っていた。公邸の寝室は、落下した本などで足の踏み場もなかった。

 このような大災害・大事故の時に出先の大使館の仕事は大きく3つ。日本にいる自国民の安否確認と保護。対日支援。そして信頼ある情報発信、だ。

   英国大使館は大阪の総領事館と合わせて計130人のスタッフがおり、このうち英外交官は約30人。英外務省はロンドンと各国の英大使館からスタッフを東京に送り込み、80人の増援部隊が到着した。ウォレン氏は200人超のスタッフを3班に分け、3交代8時間勤務の24時間体制を敷いた。英外務省とは4時間ごとに電話協議を持った。

   英国からは日本にいる家族や親せきの安否の問い合わせが殺到していた。これを捌くため、安否確認の電話は大阪の英総領事館に自動転送するよう回線設定された。

「約1万5000人の英国人から在留届が出ていて、被災地には約600人が暮らしているとみられた。連絡網を作っていたが、誰とも連絡がつかなかった」

「東京の大使館はナンバー2が指揮できる」

 日本政府に支援の打診も行った。水や食料や物資、それに救助犬を連れた緊急援助隊を日本に送り込みたいが、どこの空港が受け入れてくれるのか。首相官邸が情報を一元化していたが、福島原発問題に忙殺されていて、問い合わせに「後で返事する」と繰り返すだけだった。業を煮やしたウォレン氏は12日朝、こう伝えた。

「救援機がマンチェスターで待機している。日本政府の許可がいらず、被災地にも近くて足場がいい米軍の三沢空軍基地(青森県)に飛ばしたい」

 大使の電話に、首相官邸の担当者は

「我々もそうしてほしいと思っていた」

 と後付けの返答をした。

   13日夜、英救援機が三沢空軍基地に到着。救助犬と緊急援助隊の英チームは岩手県大船渡市に展開し、米、中国チームとともに1週間、捜索に当たった。これ以後、三沢空軍基地は英国から水や食料、放射能検査機器などを運び込む拠点となった。

 被災地に住む英国人と依然として連絡はとれなかった。「避難所に外国人がいる」との情報もあったが、東京からではいかんともしがたかった。安否確認には被災地に入らなければならない。大使は現地に入ることを決めた。

   震災3日目の3月13日朝、5人のスタッフと、スポーツタイプの大型車に同乗して仙台に向けて出発した。事前に日本政府から、緊急車両以外は通行止めとなっていた東北自動車道の通行許可をとった。ドライブインでは車に詰められるだけ食料や燃料、水、防災グッズを買い込んだ。

「大使は東京にとどまって指揮をとり、現地は部下に任す考えはなかったのですか」
と聞くと、こう返ってきた。

「こういう時はトップが被災地に姿を見せることが大事なのだ。英国は自国民を見捨てないというシグナルであり、困難な状況にある日本人被災者に『英国は日本人と共にここにいる』と、勇気づけるメッセージにもなる。東京の大使館はナンバー2が指揮できる」

被災地入りの決断を支えた「SAGE」の助言

   当時、福島第1原発はすでに危機的状況にあった。前日の12日午後に、1号機が水素爆発。後に明らかになったが、13日早朝には3号機の炉心溶融が始まり、14日朝には核燃料の大部分が圧力容器の底を突き破って、格納容器へ溶け落ちていた。2号機も放射性物質を放出し始めていた。大使は放射線リスクをどう見ていたのか。

「本国政府を通じてSAGEの見解が随時入っていて、日本政府同様、福島第1原発から20キロ圏外であればリスクはほとんどないというのがSAGEの判断だった」

   1号機の水素爆発が起きた12日夜、日本政府は第1原発から20 キロ圏内に暮らす住民に避難指示を出していた。ウォレン氏が他の大使に先駆けて被災地に入れたのも、SAGEの助言があったればこそだった。

   SAGE=緊急時科学助言グループは、緊急時に科学的知見に基づいた助言を得るための英政府の組織で、各省庁の科学顧問や外部の専門家で構成されている。3・11の前は2010年のアイスランドの火山爆発の時に招集されている(新型コロナウイルス問題で日本政府の専門家会議はこのSAGEを下敷きにした。これについては後述する)。

   仙台には7時間かけて午後3時半に着いた。一行は英大使館が押さえた仙台市内のビジネスホテルに入り、二手に分かれて、1チームは病院と避難所を回って英国人の消息をあたり、大使のチームは宮城県庁で県幹部に面会した。

「お悔やみを伝えると、大変な状況下でも皆、驚くほど親切で、こちらが恐縮するほどだった」「本来、取り乱していてもいい状況なのに、誰もが強靭かつ冷静な態度を保っていた」

 翌日、米CNNテレビが大部隊でホテルに入り、追い出された大使一行は別のホテルに移り、そこを前線基地とした。ホテル入口の大広間に「英国人支援デスク」と大書し、英国旗ユニオンジャックを立てた。在留届を手掛かりに、被災地の英国人の家や避難所を回っているチームからも英国人の情報が入りはじめた。

   大使チームは2日目、3日目と宮城県内の南三陸町、多賀城市、気仙沼市などの避難所に足を伸ばした。連絡が取れなかった英国人にも出会え、食料も手渡した。その間も余震が続き、その度、「避難の必要のあるなし」の連絡が大使館から入った。

「津波の惨状と、避難所の人々の静かで秩序だった態度の対照に私は心揺さぶられた」

 避難所を回っている最中も、情報発信の観点から英メディアの電話取材に応じた。大使が力を入れて伝えたのは3点。「英国人支援デスク」の電話番号を広く報じてくれるよう頼み、日本政府が最大限の努力をして原発事故を抑え込もうとしていること、また避難所で会った日本人の驚くべき秩序正しさと冷静さに感動していると繰り返し話した。

 大使は3泊し、16日夕、東京に戻った。この後、交代で5チームが仙台に入って、大使館に届け出がありながら、連絡がとれない英国人の家を回った。最終的に英国人170人が支援デスクを訪れ、大使館チャーターのバスで東京に運ばれた。

 日本人の伴侶と家庭を持っていて、

「このまま被災地に居続けたい」

   という英国人も少なくなかった。同氏が被災直後の現地を3泊4日にわたって見て回ったことは、英国人の安否情報の早期確認に大いに役立った。また英本国にとっても被災地の様子を詳しく知る手助けになったはずである。最終的にウォレン氏の危惧は杞憂で終わり、英国人には犠牲者はいなかった。

 ウォレン氏につづいて被災地に入った駐日大使は、3月23日に米国のジョン・ルース大使(当時)夫妻が石巻市に、同26日にフランスのフィリップ・フォール大使(同)が仙台市に入った。しかし被災地に3泊もした大使はいない。

                                                            (続く)

西川恵
毎日新聞客員編集委員。日本交通文化協会常任理事。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。