菅田将暉&有村架純「花束みたいな恋をした」 ハンカチ片手の観客への違和感

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現在公開中「花束みたいな恋をした」★☆☆☆☆(星1つ)

「鬼滅」「プペル」とアニメばかりが注目される昨今の邦画界にあって「花束みたいな恋をした」は、久しぶりの実写ビッグタイトルである。今をときめく菅田将暉と有村架純がダブル主演を務め、脚本は「東京ラブストーリー」(1991)「カルテット」(2017)などヒットドラマを手がけた坂元裕二だ。

 京王線の明大前駅で、山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)のふたりの大学生が、終電を逃したところから物語ははじまる。同じく終電を逃した男女を交え、初対面の計四人が、ラウンジ・バー(?)みたいな店で飲み始める。

 酒席では、麦と絹をよそに目の前の男女は「映画とかみる?」「あー、みるみる。けっこうマニアックって言われんだよ」「え~、いちばん好きな映画は?」「『ショーシャンクの空に』とか?」みたいな会話が交わされている。白ける麦と絹。するとふたりは、すぐそこのテーブルに何事か話し込んでいる男を発見。麦くんは呟く。「……神がいます」。

 そこにいたのは、押井守だった。「うる星やつら オンリー・ユー」(1983)「機動警察パトレイバー the Movie」(1989)「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(1995)「イノセンス」(2004)などで知られる、世界的なアニメーション監督である。

 神の一件で意気投合し、絹は麦の部屋に行ってしまう。穂村弘、長嶋有、いしいしんじ、小川洋子、舞城王太郎、大友克洋『AKIRA』、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』、奥田英朗『イン・ザ・プール』、花沢健吾『アイアムアヒーロー』、松本大洋『青い春』……ずらりと並んだ本の背を見て、「ほぼ、私の本棚じゃん」と絹は息を飲む。そしてふたりは交際を始め、同棲生活をおくる。

 こちらからすると「ほぼ、ヴィレヴァンの本棚じゃん」と思わなくもないが、それはともかく、本作ではこうした「固有名詞」が、演出装置に使われている。サブカル「っぽい」、下北沢的なイメージである。本だけでなく音楽・映画・芝居……となんでも趣味が合う麦と絹。そこに使われる作品が上記のとおりだから、ふたりの描かれ方は、オタクではなく、「カルチャー好き」ということなのだろう。一歩踏み込むならば、想定している観客も、そういった層なのだろう。

 麦と絹とは違うレベルで押井守を神と崇める知人を思い出した。筋金入りのミリタリー・オタクである彼は、年一回、産経新聞グルーが主催する軍事博物館の海外見学ツアーに参加するのを何より楽しみにしている。実弾を撃つためだけに渡米することもある。押井守や銃器、本格仕様のプラモデルに財産を投入する。衣食住はぎりぎりまで切り詰められる。だからそこに、花束みたいな恋が入り込む余地は一切ない。本作は、彼のような観客にむけて開かれた物語ではない。

 絹は生活のために就職。イラストレーター志望だった麦も、夢をいったん保留し、就職を決断する。すると彼は急速に社会人化していく。「仕事は責任だからさ」「せっかく資格まで取って見つけた仕事、なんで絹ちゃんはそんな簡単に辞めちゃうの?」。そう、絹はまだまだ夢見がち。『ゴールデンカムイ』の新刊を心待ちにし、夜は「ゼルダの伝説」に耽(ふけ)っている。当然ふたりの溝は深まっていって、悲劇の結末を予感させる。

 本作は日曜日のTOHOシネマズ上野で観たが、このあたりで、隣にいた、30代と思しき男性おひとりさま客が泣いていた。彼には花束みたいな恋愛経験があって、だから麦と絹の恋に感情移入ができたのかもしれない。

薬、盛られていないか?

 まだまだモラトリアムがつづく絹ちゃんだったが、「夢を売ることを仕事にする」イベント会社への転職を決めた。コンサートのリハーサルに立ち会いながら、鼻唄を口ずさんだりしている。

 ここで、オダギリジョー扮するそのイベント会社の社長が登場する。絹は休憩時間、イベント関係者と思しき女性に話しかけられる。「ねえ、加持さん(オダギリジョー)にはもう、誘われたの?」加持の女好きは、周知の事実のようだ。

 気になるのは、会社の宴会の席で“意識を失った”絹が、加持の膝枕で目を覚ますシーンだ。「加持さんに絡んじゃって絹ちゃんもう、大変だったんだからさあ」と加持の取り巻き連中ははやし立てるが、絹は「うそ……全然覚えてない」。そんな彼女の耳元で、加持はささやく。「ラーメンでも、食いに行く?」その背中を絹ちゃんは追いかけ、加持と共に店を後にする。

 結果的に絹は自分の意志で加持を追ったわけだが、その前段で彼女の記憶が完全に欠落している部分。これは酒に薬を混入された被害者に見られる、典型的な症状ではないのか? だとしたら、加持は卑劣な行為を働こうと企て、未遂に終わったということではないのか? リトル・モアから発売されているシナリオブックとノベライズ本を念のため確認すると、そういった気配はない。ただ、映像ではそう“解釈”することは別に、不自然ではないと思うのだが、どうだろう。絶賛の声であふれるSNS上にそんな素朴な問いを発見することは出来なかった。

 ともかく、それぞれ社会を知ったことで、溝を埋められなくなった麦と絹。別れることは決まったが、同棲を解消したあとの引越し先はどうする? 飼い猫はどちらが引き取る? といった現実的な問題が残っていた。それらがクリアされるまでの3ヶ月、麦くんと絹ちゃんは花束みたいだったあの頃みたいな時を過ごすのだ。

 しかし……ソファに並んでテレビを観ているとき、絹は、麦に「ねえ。付き合ってるあいだ浮気したこと、ある?」と聞く。麦は否定するが、絹は無言を貫く。だからこちらはオダギリジョーとの一件を、思い出さざるを得ない(ちなみにこれについても、SNS上では賛同は少ないようだ)。

 本作は「泣ける恋愛映画」として語られることが多い。が、私は先のオダギリジョーの場面から、性行為の同意・不同意の線引きといった今日的な主題をめぐる部分が、気になってしょうがなかった。でもそこにつまずいてしまったら、泣くために観にきた夢=映画が興ざめになってしまう。つまらない現実に立ち返ってしまう。この映画の「正しい」鑑賞の仕方ではないのだろう。

 SNSでこんな穿った感想は確認できない。それは裏を返せば、恋愛というものに、男女の関係というものに、そこまで「邪悪さ」を感じない観客に支持される作品ということなのだろう。そんな人々が、ハンドタオル持参で劇場で濡らす涙について考えさせられる。

椋圭介(むく・けいすけ)
映画評論家。「恋愛禁止」そんな厳格なルールだった大学の映研時代は、ただ映画を撮って見るだけ。いわゆる華やかな青春とは無縁の生活を過ごす。大学卒業後、またまた道を踏み外して映画専門学校に進学。その後いまに至るまで、映画界隈で迷走している。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月20日掲載

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