号泣する女性客の隣で観た西野亮廣『えんとつ町のプペル』 宮崎駿の背中は遠い…

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死んでいるアニメ

 たとえば『天空の城ラピュタ』の名場面のひとつ、ドーラとその息子たちの海賊一家を載せたオートモービルと、パズー、シータを乗せた軽便鉄道の追跡劇。車に走られた鉄道用の木製線路はガタピシいって、枕木は次々落下していく。ドーラがぶっ放したランチャーによって、パズーとシータは、谷底に真っ逆さま……と思いきや解放された飛行石の力に救われるのだ。谷底の廃坑で老人ポムに出くわす。「小鬼じゃ、小鬼がおる……」

 そこから発想されたであろう場面が、『えんとつ町のプペル』にある。迫りくる歯車と鉄球をかわしたルビッチと“ゴミ人間”プペルはトロッコに飛び乗って、坑道の傾斜を滑走していく。その先、炭鉱の壁面が青く輝く場所で、彼らは老人と出逢うのだ。障害物を次々超えて坂道を滑降するパーク&ライド、遊園地のアトラクション的な興奮を狙ったくだりだ。汽車、車、トロッコ……同じ乗り物を駆使してのめまぐるしい場面転換を、本作も一連の流れで見せてはいる。でもプペルのアニメーションは完全に、“死んでいる”。

失敗したスプーン曲げみたいに

 ものすごいスピードで絵コンテの束をめくりながら修正を入れていく。宮崎駿のそんな姿を『プロフェッショナル仕事の流儀』で見たひとも多いだろう。現実の世界には存在しない運動が、いま彼の目の前で生まれている。それを見ている目はいつだって好奇心で、子どものように輝いているのだ。

先に挙げた『天空の城ラピュタ』の場面を細かく見てみよう。

 定員オーバーの上に鉄道線路を走っているものだから、ボディやタイヤは歪んだりひしゃげたりして悲鳴を上げている。それでもしゃにむに爆走するオートモービルの姿かたちは、生き物のように躍動・変化している。アニメーションの語源は「いのちを吹き込む」という意味で、だから「絵」を「連続させる」という二重のデフォルメによって生まれる魔法のことなのだ。

 ラピュタにあってプペルには完全に欠落しているのは、このアニメーションだ。『えんとつ町のプペル』の絵に描かれた歯車や鉄球、トロッコはわれわれが普段見知っているままに、ただ退屈に動いている。そこにはいのちの気配が、感じられない。

 種も仕掛けもあるアニメーションは、魔術や奇術と同じようなものだ。そして見事スペクタクルとして魔術や奇術が大成功した時、観客たちはことばを失った。弾丸を歯で受け止めたロベール・ウーダン(1805~71)、象を消し拘束状態から脱出劇を十八番としたハリー・フーディーニ。(1874~1926)、その透視能力で東京帝大の教授をも唸らせた御船千鶴子(1886~1911、『リング』1998の貞子の母のモデル)といった“エンターテイナー”たちが挑戦した見世物を目の当たりにして……。

 では『えんとつ町のプペル』というアニメーションは、100分の上映時間のあいだだけでも現実を忘れさせてくれる、とっておきの魔術・奇術に値する“見世物”になっていただろうか?しかし結果は……失敗したスプーン曲げくらい、の出来である。西野氏がくり返し目配せするジブリ作品でいうならば『ゲド戦記』(2006)以上、『借りぐらしのアリエッティ』(2010)以下くらい?

 こんな映画に優秀アニメーション作品賞を与えたりしてしまうのだから、日本アカデミーも罪深い。

椋圭介(むく・けいすけ)
映画評論家。「恋愛禁止」そんな厳格なルールだった大学の映研時代は、ただ映画を撮って見るだけ。いわゆる華やかな青春とは無縁の生活を過ごす。大学卒業後、またまた道を踏み外して映画専門学校に進学。その後いまに至るまで、映画界隈で迷走している。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月10日掲載

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