1回865円、訪問歯科医の手際に驚かされる──在宅で妻を介護するということ(第17回)

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「彼女を自宅で看取ることになるかもしれない」 そんな覚悟もしつつ、68歳で62歳の妻の在宅介護をすることになったライターの平尾俊郎氏。

 介護の対象が口で食事をできるようになる。それは素晴らしいことだ。しかし、それはそれでまた別の苦労も生み出すのである。――体験的「在宅介護レポート」の第17回。

【当時のわが家の状況】
夫婦2人、賃貸マンションに暮らす。夫68歳、妻62歳(要介護5)。千葉県千葉市在住。子どもなし。夫は売れないフリーライターで、終日家にいることが多い。利用中の介護サービス/訪問診療(月1回)、訪問看護(週1回)、訪問リハビリ(週2回)、訪問入浴(週1回)、訪問歯科診療(月1回)。

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「ほうれん草のおひたし」に挑戦

 3月に身体障害者手帳をいただくと、それから3カ月余りは妻の心身に大きな異常はなく、とても緩やかな回復に向けた上り坂を日々少しずつ登っていくように思えた。私の「在宅」の暮らしもすっかり板につき、介護の重心はいよいよ苦手な“食事介助”に移行していった。

「今晩は何にしようかな。冷凍ハンバーグばかりじゃ飽きるし、麺類は食べさせるのに骨が折れる。コンビニのサンドイッチがいちばん簡単だけど、それじゃ朝と同じになる。無難なところで栄養剤とバナナで勘弁してもらうか……」

 遅い昼メシを即席めんの「どん兵衛」あたりで済ませつつ、いつも考えるのは晩ご飯のメニューだ。つい半年ほど前まで、介護上の最大の悩みは「食器の後片付け」だったが、健常者とほぼ同じ食事がとれるようになってからは、これに「晩ご飯の献立」が加わった。

 このあたりの感覚はおそらく専業主婦と変わらない。主婦業の大変さが身に染みた。前にも書いたが、下の世話などは介護のルーティンで、慣れてしまえば何ということもない。付け焼き刃では対応できないのが日々の晩ご飯の支度で、妻の食欲が戻るにつれストレスは増していった。

 基本パターンのようなものはあった。朝はトーストまたはコンビニのサンドイッチ。昼はバナナもしくは栄養剤。夜は私と同じメニューというのが、口から食べられるようになって半年後の帰結点である。

 この“私と同じ”というところが問題で、人に作ってあげる立場になって初めて貧しい食生活に気づかされたのである。魚か肉を買ってきて、基本は焼いて食べるだけ。長い独身時代(40歳で結婚)があったのに料理の腕を磨くこともなく、冷凍食品か外食で済ましていた。

 だから、レパートリーは恐ろしく少ない。冷凍食品ならハンバーグ、スパゲッティ、ピラフ、グラタンの類。冷凍が続いたら、コンビニのおにぎりか弁当にする。数少ない自炊メニューの野菜炒めを出したりもするが、バリエーション不足は否めない。「食べるのが唯一の楽しみ」なのにこれじゃかわいそうだ。

 かといって、よく新聞のチラシに入っている宅配弁当では満足できない。確かに毎日献立は変わり、栄養価も計算されているし、晩メシだけなら1週間(7食)4千円前後と経済的だ。しかし、一度試してみて夫婦ともにNOを出した。チンして食べても、なんだか病院食を食べているようで食べる喜びが湧いてこないのである。

「これならまだレトルトとか、たまにあなたがレシピを見ながらつくる手料理の方がマシ」と女房は言う。それに気を良くして、少しずつ厨房に立つ機会も増えた。

 先日は、女房のリクエストに応えて「ほうれん草のおひたし」に挑戦した。冷凍食品を探したが見当たらないので、スーパーでほうれん草を買い、パソコンでレシピを検索しその通りに湯がいてつくった。ゴマだれは面倒なので出来合いのものに。案外簡単で女房も合格という。やってみるものである。

 特製ラーメンも評判が良かった。特製といっても、インスタントの生ラーメンに、セブンイレブンの「豚の角煮」「シナチク」「海苔」を添えるだけだが、お店で食べている気分になれる。

 ただ麺になると、箸がまだ使えないので介助の手間が一気に増える。麺や具材をつまんで口まで持っていく作業を、全部私がやらねばならない。喜ぶ顔は見たいが調子に乗って作るとあとが大変なのである。食べ終わるころには麺は伸び、スープもすっかり冷めてしまっている。

歯医者さんが家に来てくれた

 食事に時間がかかる理由は3つある。第一に、フォークや箸をしっかり持つ握力が足りないこと。結果、先端まで力が伝わらない。それでも何とかフォークは使えるようになったが、すくうか刺すかの動きしかできない。第二は、やはり人の倍くらい嚥下(飲み込み)に時間がかかることで、これは病み上がりだから仕方ないだろう。

 一番のネックは「歯」だ。もともと歯槽膿漏があり、かろうじて残った上の4本の歯がグラついている。ちょっと硬くて厚みがあるもの、肉片などを噛みちぎることができない。つまり、嚥下というより咀嚼に難があって、それで時間がかかるのだ。

 歯を治療したいが、車いすで外に出るにはまだ相当の時間を要する。そんな話をケアマネさんにしたところ、「来てくれますよ」と簡単に言う。しかも地域に数件、訪問診療に対応した歯科医院があるというではないか。目からウロコが落ちる思いがした。

「在宅」を始めて1年半、うかつにも私は「訪問歯科」の存在を全く知らなかった。歯医者さんも家に来てくれるのだ。そして、介護保険と医療保険の範囲内での治療が可能という。これはありがたい。早速手配して6月から月に1度診てもらうことにした。

 初めて来てくれたのは6月中旬。歯科医師、歯科衛生士、スタッフの3名でやって来た。女房はベッドに寝たまま、背もたれを上げるだけでいい。テーブルにピンセットやトレーを並べ、小型の強力なLEDライトを口内に照射する。不思議なもので、寝室が歯科医院の一角に見えてきた。

 いったいどこまでの治療が可能なのか。先生に聞いたところ、「訪問診療用の機材があるので、歯科医院でできることはだいたいできますよ」とのこと。当分歯医者にはかかれないと思っていただけに、目の前が開けたような気になった。

 診察の結果、女房の場合、本来なら抜歯して義歯を作るところだが、現状ではまだ体力的負担が大きいため、しばらくは口腔ケアを続けて様子を見ることにした。

 口内を清潔に保つことは口臭を防ぐためだけでなく、歯垢の中に潜む一部の細菌から身を守るためにも重要とされる。虫歯や歯周病を引き起こすだけでなく、近年は全身疾患の引き金になるとも言われている。1回の費用も、ウチの場合医療費は無料になるため、介護保険分の自己負担865円で済んだ。

 初回の所要時間は30分ほど。一部炎症があったようで、膿みを出し、抗生物質を処方してもらった。隅々まで歯垢を除去してもらった女房の歯は、看護師がそれと気づくほど黄ばみがとれて白くなった。

 向こうから来てくれ、待たされることもなく治療してくれ、診療費も特別高くはない訪問歯科診療というシステム──要介護者だけでなく、一般にも是非普及して欲しいと思った。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2021年1月21日掲載

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