「ジョン・レノン」が亡くなった1980年はどのような“意味”を持つのか ポールの逮捕、幻の日本ツアー

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 解散から50年経つというのに、毎年のように関連作品がリリースされ続け、圧倒的な人気を誇るザ・ビートルズ。40年前、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人、そして世界にとって、決定的な悲劇が起こった。果たして“あの年”はいかなる意味を持つのか。

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 1980年12月8日、全米が見守るフットボール中継の終了間際に、実況者が突然次のように叫んだ。

「どちらが勝とうが負けようが、これはあくまでフットボールの試合です。しかし、いま口にするのも憚られるような悲報がニューヨークから届きました。あのジョン・レノンが銃撃により死亡したとのことです。こんなニュースの後に試合に戻るなんてとてもできません」――。

 ビートルズの実質的リーダーであったジョン・レノンの射殺。J・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を手にした殺人者マーク・チャップマンに、ジョンが自宅のあるダコタ・ハウスに戻ってきたところで襲撃されたのだ。

 ニュースは瞬く間に全世界に流れ、ダコタ・ハウスの周囲は祈りを捧げ歌う群衆の声で夜も眠れないほどとなった。事態の収束を願った妻、ヨーコの呼びかけで、12月14日にはジョンを追悼する10分間の黙祷が捧げられ、この黙祷には全世界で数百万人を超える人々が参加した。

 現在、ビートルズの音楽は、時代を超えたスタンダード、あるいはポピュラー・ミュージックの世界において欠くことのできない基本的なフォーマットとして捉えられている。「日常の一部」となっているその圧倒的な存在感、「永遠の現役感」を思えば、ビートルズ自体がもはや音楽の一ジャンルになってしまっていると言っても過言ではないだろう。街に出れば、至るところでその音楽が流れ、四六時中ビートルズをかけている店も珍しくない。

 では、これほどまでに大きな影響を持つ存在となったビートルズにとって、ジョンが殺された1980年とは一体どんな意味を持つ年だったのだろうか。幸い、歴史上ビートルズほどその行動がつぶさに記録されてきたグループはない。それゆえ、40年を経た今、我々は「1980年のビートルズ」を多くの事実に基づいて「今に繋がる存在」として改めて見つめ直すことができる。1980年がどのような年であり、どのように現在に結びついているのかを探す旅に出てみよう。

 ザ・ビートルズはイギリスの港町リバプールの幼馴染みによって結成され、ドイツのハンブルクで研鑽を積み、62年にレコードデビューし、70年に解散した。つまり、80年当時、ビートルズは10年も前に解散した「過去のバンド」だった。もちろん、この当時もビートルズが人々の記憶から消え去っていた訳ではない。だが、60年代にビートルズが生み出した音楽的な成果が、70年代に活躍したさまざまなバンドやアーティストに受け継がれ、発展・展開していく中で、技術あるいは個性の先鋭化という点でビートルズを凌ぐような水準にまで到達していたというのもまた事実であり、「今ある音楽がより革新的に進化していく」という期待感が色濃く漂っている時代だったのである。

 それゆえ、ビートルズへの回帰はある種のノスタルジアに過ぎず、ビートルズの元メンバー4人もその周囲も、そして世界もビートルズを愛しつつも、それを乗り越えて、より新しくより良いものを目指そうともがいている時代だったと言えるだろう。

 だからこそ、解散後、ジョンは「ビートルズを信じない、夢は終わったのだ」と歌い、ポールは、71年に新たに結成したバンド「ウィングス」で、彼の圧倒的な資産である筈のビートルズナンバーを封印していたのだろう。

4人の関係の“その後”

 ビートルズ解散劇の主役は、どうしても、ジョンとポールの関係に行き着いてしまう。ジョージは後年、「ジョンもポールも、良くも悪くも『ジョンとポール』であることに忙しかった」と語っている。ふたりにとってビートルズであることは、ジョンにとってはポールと、ポールにとってはジョンと、時に競争し合い、時に協力し合って最高の楽曲を作り上げることを意味していたからだろう。

 ビートルズ後期の「サムシング」、そしてソロ時代にも幾多の名曲を書いたジョージも、ポールから見ればジョンの放つカリスマ的な個性の前には地味であり、ジョンから見ればいつまで経っても優秀な弟分でしかなかったようである。

 したがって、ビートルズの解散はその解散権を巡ってのジョンとポールの主導権争いという側面が強く見て取れる。ジョンにしてみれば、たとえどれほどポールがミュージシャンとして優秀でバンドでの自分の立場を揺るがしかねない存在だとしても、あくまでもビートルズは自分のバンドであるという自負があったであろうし、ポールにしてみれば他のどのメンバーよりも貢献してきたという自負から自分なしのビートルズなどありえないという強い想いがあり、共に自分がビートルズであるという意識はジョージやリンゴの比ではなかった筈だ。

 実際、68年のアルバム「ザ・ビートルズ」(通称「ホワイトアルバム」)制作中にはリンゴが、69年の「ゲット・バック」制作中にはジョージが、それぞれ一時的に脱退した時もあったが、それを理由にビートルズが解散することはなかった。リンゴ不在時にはポールが嬉々としてドラムを叩き(「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」など)、ジョージ不在時にはエリック・クラプトンに加入を打診するなど、結構薄情な対応をしているが、グループの体裁は壊れていないのである。しかし、支配的に振る舞いがちなポールと、ヨーコに夢中で本来なら発揮するべきリーダーシップを放棄したジョンというふたりのアンバランスな関係は、徐々にだが確実にビートルズを解散に向かわせた。

 決定的だったのは、ジョンの強い推薦によりビートルズがアラン・クラインとマネージメント契約を結んだことである。ポールは何かとアランに反発した。結果、ポールとアランの対立は必然的にアラン側に付く3人とポールの対立を招き、こうしたビジネス上の対立がビートルズ解散の直接的な原因となった。

 69年9月20日、ジョンはアップル社での会合で脱退宣言をするが、契約上の問題を理由にその公表は伏せるようポールを含む周囲に説得され、従っている。しかし、初のソロアルバム「マッカートニー」の発売時期を延期するとアランから通告されて激怒したポールが、70年4月10日、アルバムのプレスリリースの資料の中でビートルズが解散状態にあることをバラしてしまったのである。ジョンにとっては、自分が告げるべきビートルズ終焉を口止めしていた当のポールが勝手に発表したことになる。かくして、ここから、数年に亘るポップス史上最も有名な“兄弟喧嘩”が始まったのである。

 このように、ビートルズ解散劇はジョンとポールふたりを中心に展開したが、その後の4人の関係はどんなものだっただろうか。

 リンゴは一貫して他の3人とも良好な関係だったようである。その証拠に、リンゴのソロアルバムには、ジョン、ポール、ジョージの3人が毎回それぞれに楽曲提供や演奏に参加している。また、「うるさい、放っておいてくれ」とポールに当てつけた曲だとも噂される「ワー・ワー」を書き、映画「レット・イット・ビー」の中でも演奏に逐一注文をつけてくるポールとの間に感情的軋轢を見せていたジョージも、実は74年にはその関係を修復している。10代の頃からの幼馴染みであったビートルズの面々は、バンドである前にそもそも仲の良い友人同士だったのである。映画「レット・イット・ビー」の最後にアップル社屋上で披露されたライブ(通称:ルーフトップ・コンサート)を見れば、仲の悪いバンドにはとてもできない息ぴったりの演奏であることがすぐにわかる。

 そして、一時はお互いのアルバム収録曲で相手となじり合うまでに険悪だったジョンとポールも74年にはその関係を修復させている。ジョンがヨーコと別居していた時期(ジョンが酒浸りの酷い状態にあったことから、同名の映画に擬(なぞら)えて「失われた週末」と呼ばれた)にふたりは仲良くセッションしているし、当時人気絶頂にあったエルトン・ジョンのライブでジョンはヨーコと再会しヨリを戻すのだが、そのライブに行くようヨーコに働きかけたのが実はポールであったといわれている。ジョンの暮らすダコタのアパートメントにポールは妻リンダと何度も足を運び、ヨーコも交えた4人で楽しい時間を過ごしていたという。

 70年代を通じて、解散によって途切れていた4人の親交は、徐々にではあるが確実に以前のそれに戻りつつあったのだ。

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