【2020年に旅立った著名人】ミスタードラゴンズ「高木守道」さん、激昂騒動と伝説の「10・8決戦」

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 中日一筋で活躍した高木守道さんは、攻走守そろった名二塁手。なかでも守備の巧みさは別格だった。(「週刊新潮」2020年1月30日号掲載の内容です)

 野球評論家の有本義明さんは振り返る。

「捕球から送球までの時間を減らし、通常のプレーではできないところをアウトにしました。捕球後すぐさま、手首とひじをきかせて投げるバックトスは、コントロールとタイミングが問われる名人芸です」

 捕球したグラブから直接トスするグラブトスも華麗。

「ファインプレーなのに表情も変えず、職人のように淡々とこなした」(有本さん)

 三遊間にゴロが飛ぶと、万が一の悪送球に備えて全速力で一塁のカバーに入る。全く手抜きしない選手だ。

 1941年生まれ。岐阜で育つ。実家は農家。県立岐阜商業高校在学中、立教大学で活躍していた長嶋茂雄さんが指導に訪問、高木さんの才能を見抜き、遊撃手から二塁手になる転機となった。

 60年、中日に入団。当時の監督、杉下茂さんは言う。

「高校を卒業したてで、もうできあがっていて驚いた。すぐにでも使いたかったのですが、二塁手は、ベストナインに選ばれ長打力のある井上登が活躍していたので、動かすわけにはいかなかった。そこで代走や代打で起用しました」

 同年5月、代走で初出場すると早速、盗塁を決め、そのまま二塁を守る。初打席で初本塁打を放った。

「無口ですが、結果は出す。頼もしかった」(杉下さん)

 63年にレギュラーに定着。盗塁王にも輝くが無表情。だが、珍しく感情をあらわにしたこともある。75年、内野ゴロで三塁から本塁突入を試みて挟まれた時だ。

 巨人の投手だった関本四十四さんは思い出す。

「高木さんの胸にタッチするつもりが、避けようと身をかがめた高木さんの顔に当たってしまいました」

 怒って向かってきた高木さんの顔面に関本さんのグラブが再び当たった。

「痛恨の出来事です。しばらくして新幹線の車内で偶然会う機会があり、謝りました。高木さんは気持ちよく接して下さり、ありがたかった」(関本さん)

 無表情で喋らない高木さんは「むっつり右門」と呼ばれた。激高する闘志を秘めていたと、ファンは騒動をむしろ好意的に取った。

 80年に現役を退く。21年間で2282試合に出場。2274安打、打率2割7分2厘、236本塁打、813打点、369盗塁。

 92年より中日の監督に。94年には巨人を追い上げ、史上初めて同率首位で最終戦で優勝を争う「10・8決戦」を迎えた。巨人が槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄を続々と投入するなか、特別な選手起用はせず敗れた。

「守道らしい平常心でした。朴訥で、無理に好かれようとしたり余計なことを言わないのと同じ采配でした」(野球評論家の広岡達朗さん)

 翌95年、シーズン途中で解任。解説者や評論家を務めても、本当にうまいプレーしかほめなかった。

 2006年、野球殿堂入り。12年、70歳で落合博満監督の後任に。実は短気な性格が表に出たのか、人前でコーチや選手を叱る姿が報じられた。翌13年に辞任。

「高木さんは天賦の才があるうえに努力する人です。自分ができることは相手もできるはずと考えていた面があります」(有本さん)

 野球評論家の張本勲さんも言う。

「高木監督のもと臨時打撃コーチを務めました。先を見据えた考え方をして、筋を通す義理堅い人です」

 1月12日には中日の元投手で1年先輩の板東英二さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組に出演した。

 1月17日未明、妻に体の痛みを訴え、急性心不全のため78歳で逝去。

 取材で「10・8決戦」を話題にされても嫌がらなかった。勝って優勝していたら、私の野球人生も変わっていただろう、と采配を振り返ることもあった。

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