「日米関係」だけでは見誤る「ポスト・ポスト冷戦期」の日本外交

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「ポスト冷戦期」から国際秩序が多極化あるいは無極化した「ポスト・ポスト冷戦期」へと時代が移り変わる中、これまで以上に多角的、多面的なアプローチが求められている日本外交。

 奇しくも8年弱にわたる安倍政権が幕を閉じ、菅政権での新しい外交が始まりつつあります。

 そこで「アフリカ開発会議(TICAD)」を巡る対アフリカ外交を研究している立命館大学の白戸圭一教授と、エネルギー資源外交の研究(『「経済大国」日本の外交――エネルギー資源外交の形成 1967〜1974年』)で2016年サントリー学芸賞を受賞した放送大学の白鳥潤一郎准教授に対談していただきました。

 今後の日本外交をどう見ればいいのか。安倍外交をどう評価すべきか、日本外交史を研究する意義とは――。

特定分野に集中している研究者とメディア

白鳥潤一郎 私は白戸さんが『毎日新聞』の記者をしていた頃から一ファンとして追いかけていたのですが、初めてお話したのは、2018年11月の日本国際政治学会の研究大会でした。私が日本外交史分科会のラウンドテーブルで発表したときに声をかけていただいた。

白戸圭一 当時はちょうど三井物産戦略研究所から立命館大学に移り、日本のアフリカ外交に関する研究を始めようとしていた頃でした。けれど、何から手をつければいいか分からない。そこでヒントになるものを探して参加したところ、白鳥さんの姿が目に留まったのです。

白鳥 あのラウンドテーブルでは、日本の外交記録公開制度の進化と課題について議論したのですが、実は外交文書を研究に使ってくれる人を広くリクルートできればという思惑もありました。

 というのも、これだけ日本外交が多角的、多面的になっているにもかかわらず、研究者の関心は依然として日米安保や日中関係、沖縄返還などの特定の分野に集中している。それでは歴史が現代を見る上での鏡にならないのではないかという思いがあり、これだけ使える史料があるのだという報告したのです。

白戸 特定の分野に集中しているのは、ジャーナリズムの世界も全く同じです。

 今でもよく覚えているのは、2002年10月に外務省の担当記者になった時に、当時のキャップから言われたこと。

「お前は日米、お前は日中、お前は朝鮮半島、お前は日本とロシアだ」と、4人の記者が担当を割り振られ、「これ以外は取材する必要ないから」と。このような傾向は、残念ながら今も変わっていません。

 国際報道部門でも、日米関係、朝鮮半島、中国といった限定された地域に関してしか専門記者を育成しようという意思がありません。これらの地域の担当記者は若い時に担当地域に派遣され、支局長などの上席の特派員となり、任期を終えて帰国してからも専門記者として仕事をしていくことができますが、アフリカや中東、中南米、さらにヨーロッパやインドですらも、専門記者としてやっていくのは難しい。 

 私は大学院の修士課程でアフリカのことを勉強し、新聞記者になってアフリカの特派員を経験しましたが、帰国したらもうアフリカとの付き合いは終わり。それが新聞社を辞める理由の1つになりました。

日本外交の多角的な姿

白鳥 その意味で、白戸さんが特別連載『アフリカ開発会議「TICAD」誕生秘録』で、日本のアフリカ外交というこれまでの外交史研究であまり蓄積がないような領域に手を付けられたのは、ある種の必然ではないかと思っています。

 新聞にしてもテレビにしても、報道の中心は第一に日米関係であり、それに次いで中国や朝鮮半島に関するニュースがセンセーショナルに伝えられ、ロシアが北方領土関連で散発的に報じられるのが目立つくらいです。

 また、二国間の関係を積み重ねて外交を見ていく視点が凄く強い。けれど、これが日本外交の実態を表しているかと言えば、私はそうではないと思っています。

 たとえば1970年代末から90年代前半くらいまでのG7サミット(先進国首脳会議)を巡る外交では、マルチな空間が広がっていました。日米関係とはまたちょっと違うものがヨーロッパ諸国との間で生まれ、日欧が組んでアメリカと対峙する場面もあった。また、サミットの前後に日本がアジアの国々を回り、アジアの代表という立場で向き合っていた。日米を中心に見て、そこに近隣諸国を加えるイメージとはだいぶ違います。

白戸 メディアも日本外交の多角的な姿を捉えようとすることなく時間が経過してしまったのだなと感じます。

 TICADを巡っても、日本は国連外交、マルチ外交を行っていましたし、「価値」や「理念」に重きを置く外交を打ち出す最初の場でもあったと思います。

 特別連載の取材で小和田恆・元外務事務次官に2回ほどインタビューをさせていただいたのですが、小和田さんは国連における選挙対策としてTICADを開催することには反対で、日本とアフリカ諸国が開発の理念を共有できる場にしようという思いを持っておられた。

日本外交「転換点」の底流

白鳥 戦後の日本は自由陣営の一員と言いながら、いわゆる自由や民主主義といった「価値」の問題を軽視しているところがあり、他国と比べても独裁者に甘い国家でした。

 そこにはもちろん、「衣食足りて礼節を知る」的な日本なりの考えがあり、政治的に成熟するにも、まずは開発をして国を豊かにすることが大事なのだという議論があった。

 けれど、冷戦終結前後から徐々に開発の世界を含めて「価値」の問題をどう考えるのかというところに外交全体の関心が広がっていった。

 その端緒として一般的に語られるのは1991年の湾岸戦争の衝撃ですが、私はその裏に知られざる底流があったのではないかと考えてきました。

 1988年に竹下内閣の目玉政策として「国際協力構想」が掲げられ、1989年の天安門事件で及び腰ながらも円借款を停止した頃から、徐々に受け身の外交からプロアクティブ(積極的)な外交に転換していかなければいけないという動きが外務省内にあり、村田良平次官や栗山尚一外務審議官などが具体的な模索をしていた。OECD大使から外務審議官として本省に戻った小和田外務審議官も加わります。G7サミットをはじめ、それまで日本の国際秩序への関与は経済面にほぼ限られていましたが、それを超えようという試みです。

 TICADもその1つとしてイメージしていたので、その仮説のようなものが白戸さんの特別連載で裏付けられ、大変興味深く拝読しました。

 当時の新聞はある程度見ていたつもりでしたが、第1回TICADの開催決定と南アフリカへの制裁解除がこれほど密接に関係していたというのは、私にとっても発見でした。

「力」「利益」「価値」という観点

白戸 1980年代くらいから価値や理念を中心に据えた外交構想を唱える人たちが出てきたということですが、TICADのその後の展開を見ると、日本自身の国益と経済成長のためにどうTICADを利用するかというところに変質していっているようにも見えます。

 つまり、「価値」や「理念」ではなく「利益」の外交をやろうとしているように見える。

白鳥 「力、利益、価値」という観点で国際秩序を見るのは国際政治学者の高坂正堯先生の議論から来ていますが、1970年前後にある程度、戦後処理に目途を立てた日本は、まず「利益」の体系に取り組むことになりました。それが冷戦終結前後から「価値」の体系に関わる新たな問題が出てきた。

 大事なのは、新しい課題が出てきたからといって以前の課題がなくなるわけではないということです。

 白戸さんの特別連載でも書かれているように、TICADが始まった時期は、アフリカ諸国が経済大国としての日本に援助を求める「利益」の体系に関わる問題と、あくまでも援助ではなく開発を促すのだという「価値」の問題を、どう組み合わせるのかが外務省の中で議論されていました。

 そして2010年前後から中国が本格的に台頭しきて、これまで以上に真剣に向き合うべき課題としてナショナルディフェンス、つまり「力」の体系の問題が浮上してきた。

 気がついたら日本は、「力」「利益」「価値」それぞれの問題について、グローバルプレイヤーとしてどう向き合うかを考えないといけなくなっていた。けれど、国力は相対的に下がっている。この釣り合いをどう取るかは難しい問題です。

安倍政権が重視した「利益」

白戸 日本が掲げる「自由で開かれたインド太平洋」構想は、民主主義や法の支配といった価値や理念に重きを置き、同じ価値を共有するインドやオーストラリア、もちろんアメリカも引き込んで中国に対する理念の対抗軸を打ち出しているとも言えます。

 そうは言っても理念だけで抑え込めるかということで、近年の日本外交は安保法制を整備し、「力」の外交をやっているような面も見える。

 今の日本は「力」「利益」「価値」で言うと、どこに重点があるのでしょうか。

白鳥 「自由で開かれたインド太平洋」や「自由と繁栄の弧」「地球儀を俯瞰する外交」は、同じ曲を違う歌詞で歌っているようなものですが、これらは「価値」と「力」を重視している人たちが一緒に乗れるのだと思います。

 けれど、第2次安倍政権は「価値」というのを使える部分は使うけど、それほど重視していなかったのではないかと思います。

 たとえば民主党政権で派遣が始まった南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)は、安倍政権が掲げた外交理念に基づけば歯を食いしばってでも続けるか、2008年の国連の定義変更に合わせて日本の法制度を変えるなりし、積極的平和主義を貫いてもおかしくありませんでした。けれど、それはしなかった。

 では「力」を重視しているかと言うと、世間で言われるほどタカ派ではない。安倍政権の実際の行動は基本的に抑制的でした。

白戸 私もそう思います。

 彼を支えていた国内政治基盤の論理は確かに非常に右派的、復古的でしたが、たとえば2013年12月に靖国神社に参拝をしてアメリカから強く批判されると、在職中は参拝を封印しましたよね。

 中国との関係も、中国がアグレッシブに来ている時は険悪になりますが、態度を弱めると修復していく。国内の反中の支持勢力から“総理は裏切った”と言われるようなこともする政権でした。

白鳥 現実的な対応をする政権ということだと思います。国家安全保障会議(NSC)をつくったり、安保法制を成立させたりと、仕組みは整えるけれど、それを使って現実に何か国際的に行動を起こしたりすることには抑制的でした。つまり、「力」の行使について必ずしも積極的ではない。

 そう考えると、安倍政権が一貫して重視し、他を犠牲にしてでもやってきたのは、「利益」の体系に関わる問題だと思います。中でも一番大きな成果だったと思うのは、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11)と日EU(欧州連合)経済連携協定(EPA)。経済面を中心に日欧関係はそれなりに新聞で報道されていますが、安倍外交を評価する際に注目されているようには見えません。

 大雑把な整理ですが、この見取り図の中に、今変貌しつつあるTICADはどう位置づけられるでしょうか。

安倍政権のアフリカ外交

白戸 日本の国力のピークが過ぎ、国内で社会保障財源が肥大化する中、政府開発援助(ODA)に振り向けられる予算は、減らないにしても増やすことはできません。

 その中で最も人口成長率の高いアフリカ地域を日本のための利益という形で市場として取り込んでいこうとすれば、1990年代初頭に想定していたような無償援助だけを活用した対アフリカ外交には限界がある。

 そこで安倍政権には、日本企業がアフリカ社会の中にある課題解決に寄与しつつ、アフリカで収益をあげて利益を日本に持って帰ってくるような構図をつくりたいという発想があったと思います。

 その部分で言えば、私も安倍政権は「利益」を重視してTICADの構想を組み立ててはいたのだろうと理解しています。

 ただ、日本には中国のような国営企業、国策企業はないので、民間企業のお尻を叩いてアフリカに投資してくださいと言っても、判断は各社に委ねられている。

 民間は面従腹背のところがあって、本音ではアフリカなんてどうなるか分からないので、できればやりたくない。けれど、政府の会議に出ると、一生懸命やりますと言う。

 政権側からすると、なかなか思い描いているような「利益」を重視する体系に則ったアフリカ外交は展開できなかったのではないかと思います。安倍晋三総理本人はどうか分かりませんが、その下で仕事をしていた外務省や経済産業省の人からすると、歯がゆいものがあったのではないかと思います。

白鳥 仕組みをつくって規制をどううまく調整していくのかというところが政府のやるべきことだと思うので、それをどう活かすかは民間に問われているのかなと思います。

白戸 アフリカ投資が伸びなかったのは総理一人に責任を帰せられるものではなく、日本の企業文化など社会の構造的な問題も含めた結果なので、私は安倍政権のアフリカ外交が失敗だったとは思いません。

 2016年にはTICADがケニアで開催され、安倍総理はアフリカを訪れています。ケニア開催はアフリカ連合(AU)と日本の関係の中で決まったことですが、当然ながら日本側の意向も反映された決定であり、「地球儀を俯瞰する外交」の実践の1つだったと思います。

 この時、安倍総理がアフリカとの間で商談をまとめたか、安全保障に関する画期的な枠組みをつくったかと言うとそうではありませんが、それは本来の任務ではない。日本のプレゼンスを見せるという役割はきちんと果たした。

 外交はモメンタム(勢い)を維持することが重要ですが、アフリカのように放っておくとモメンタムがどんどん潰えていくような地域ではとりわけ重要です。その意味で、きちんとモメンタムを維持したと思います。

 しかし、北方領土問題と拉致問題で成果が上がらなかったから、安倍政権の外交は成果がなかったという解説がある。そういうのを見ると、日中、日ロ、日朝だけを見ていればいいという新聞記者時代に言われた枠組みが今も残っているのだなと感じます。

白鳥 安倍政権はアフリカもそうですし、ヨーロッパとの関係にも力を入れていました。日EUのEPAの他に北太平洋条約機構(NATO)との共同計画をつくったり、危機管理訓練に参加したりした。

 日米同盟を深化させる、そしてアジアの近隣諸国との友好関係を重視するという日本外交の2大方針は変わりませんが、もう日米関係とアジア外交の組み合わせだけでその政権の外交を評価できない時代なのではないかと思います。

 未だに世論やメディアが、「対米追従」なのか「対米自主」なのかといったアメリカとの関係を軸に日本の外交の営み全体を見ているようだと、グローバルに活動してきた冷戦後の日本外交の姿の実態はなかなか見えません。

 実態が見えないと、本質的な意味での批判ができず、政府にいい意味での緊張感を与えながら取り組んでもらうことができないのではないかという危惧があります。

ポスト・ポスト冷戦時代の国際秩序

白鳥 日本外交だけでなく世界の国際秩序全体を「力」「価値」「利益」の観点から見ると、冷戦終結後のある時期は力の問題が後景に退いていました。今から振り返ると「ポスト冷戦」と言われた時期で、アメリカ一極、アメリカ一強とされた。

 それが2010年前後になると、リーマンショックも1つの契機だったと思いますが、多極あるいは無極と言われる時代に突入していく。

 では、まだ名前のついていない「ポスト・ポスト冷戦期」をどのように捉えるのかという時に、世界全体の傾向は価値の問題や利益の問題がなくなったわけではないにせよ、力の要素がかなり前面に登場してきているようにも思います。この時代の特徴について、私自身は「異質な国家間の相互依存が常態化した時代」と考えています。

 冷戦期は基本的に米国とソ連という2つの国際社会が併存した時代で、米ソの相互依存はほぼありませんでした。それに対して今は、アメリカと途上国の間、中国と日本を含めた先進国の間、その他の国々との間の相互依存がかなり深まっている。

 かつ、冷戦期と違い、中国は自国の政治体制を他国にプロモーションする国ではないので、イデオロギーの対立があるかというとない。

 その点で言うと、「新しい冷戦」という表現はやや不正確で、中国のパワーが上がっていく中で「力」の側面が出ているけれど、同時に相互依存も常態化している。

 そういう時代をどのように捉えられるのかということは、政治的な要素、経済的な要素の双方から考えないといけない問題だと思います。

白戸 東西冷戦の時代は、米ソ間の貿易はないに等しいほど小さいもので、西と東の人とモノの交流も限定的でした。

 対して今は、米中の経済的な相互依存は断ち切れない。断ち切れないがゆえに問題の解決が複雑で難しくなっている。

 先日、ワシントンのシンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)のオンライン会議に参加し、ポストコロナ時代の中国アフリカ関係について議論したのですが、そこでも米中冷戦なんていうものは少なくともアフリカでは起きていないという話になりました。

 経済的には中国の独壇場で、安全保障ではアメリカやフランスがそれぞれ違う領域でプレゼンスを持っている。アフリカで冷戦時代のように米中がそれぞれの勢力を支援してクーデター合戦のようなことをやっているかというと、やっていない。米中のデカップリング(切り離し)が起きているのは局地的で、東アジアでは顕著だけれど、アフリカには出ていません。

 そう考えると、今の世界の状況は単純な新冷戦ではなく、政治、経済、安全保障それぞれのレベルで関係の方向性が絡み合っている複雑系の世界だよねという結論になりました。

情報公開制度の課題

白戸 今回のTICADの研究を通して、日本の情報公開制度は課題が多いなと感じました。

 特別連載で取り上げたアフリカ大使会議の討議概要は、外務省の文書庫にあるだろうと推測され、文書の名前も分かっていたので、半年ほどで公開されましたが、外交史料館にある「要審査」の史料は開示まで1年程かかりますよね。

白鳥 概ねそのくらいかかりますね。

 それでも10年前に比べると、毎年新たに利用可能になる外交文書の量はほぼ倍になりました。ただスピードには課題があります。30年ルールに基づいた外交史料館への移管は日米安保関係など特定の問題以外は順調ながら、利用まで時間がかかる。これはつまるところ予算の問題です。

 また外務省で情報公開の審査を原課で担当するのは入省1、2年目の若手が中心で、マンパワーも限られているので仕方がない面もあります。

 情報公開の対応は請求の仕方や案件によってかなり対応がかわってくるので、テクニックが要る。

 たとえば今年1月23日付の『朝日新聞』が、三木武夫元首相が母校に寄贈した外交文書をもとに、1956年の日ソ共同宣言に至るまでの交渉過程について記事にしていましたが、私はこの同じ文書の大部分を10年程前に情報公開請求で入手していました。

 なぜ請求が通ったかというと、「領土問題に関する部分を公開しなくていい」という但し書きをつけたから。そうすると、それ以外の部分は簡単に開く。私はシベリア開発を巡ってどのような話が行われたかを知りたかったのです。政治的に問題になりにくそうなものであれば、外務省としても文書を出しやすい。

 また以前、1974年2月にワシントンで開かれた石油消費国会議の文書を請求したのですが、当時の資料で「ワシントン・エネルギー会議」と訳しているものが多かったので、その名称で請求をしたら、結果は「文書不存在」。行政文書ファイル管理簿で調べたら「エネルギー・ワシントン会議」で登録されていました。

 これ以来、その文書が入っているファイルに当たりをつけておいて、但し書きに書くようになりました。

白戸 今後はTICAD2以降の今日にいたるまでの変化をオーラルヒストリーのような形でできないかと思っています。新しい時代になればなるほど文書が公開対象ではないので、新しい時代について史料で研究していくのは大変なことですね。

白鳥 外交史研究も戦後になると、必ずしも文学部史学科のような純粋な歴史家の仕事とは言い切れない部分があると思います。私もこれまでの研究ではいろいろな方にインタビューをして話を聞いているので、ジャーナリストの調査報道に近いようなことをしている。

 2001年4月の情報公開法施行やパソコンの利用が進んだこともあって、保存される文書は良くも悪くも厳選されるようになりました。また、外務省を中心に見ていても外交全体が見通せない状況は増えています。生々しいスクープみたいなものを取るのは難しいかもしれませんが、関係者に話を聞いて聞き取りの記録を残していく、つくっていくことも、今後の外交史研究には求められているのかなと思います。

白戸圭一
立命館大学国際関係学部教授。1970年生れ。立命館大学大学院国際関係研究科修士課程修了。毎日新聞社の外信部、政治部、ヨハネスブルク支局、北米総局(ワシントン)などで勤務した後、三井物産戦略研究所を経て2018年4月より現職。著書に『ルポ 資源大陸アフリカ』(東洋経済新報社、日本ジャーナリスト会議賞受賞)、『日本人のためのアフリカ入門』(ちくま新書)、『ボコ・ハラム イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織』(新潮社)など。京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授、三井物産戦略研究所客員研究員を兼任。

白鳥潤一郎
放送大学教養学部准教授。1983年生まれ。慶應義塾大学 大学院法学研究科 政治学専攻後期博士課程修了、博士(法学)。北海道大学大学院法学研究科講師、立教大学法学部助教などを経て現職。専門は、国際政治学/日本政治外交史。現在は、戦後日本のエネルギー資源外交及び対外政策関係機構の変遷、初期の主要国首脳会議(サミット)を中心に研究を進めている。また、ウェブサイト「データベース日本外交史」(https://sites.google.com/view/databasejdh/)を共同運営し、戦後日本に関する各種資料(情報公開法で取得した文書、人事一覧、移管・公開ファイル一覧)を提供している。著書に『「経済大国」日本の外交 - エネルギー資源外交の形成 1967~1974年 』(2015年、千倉書房)、『朝海浩一郎日記』(共編著、2019年、千倉書房)『国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ――藤井宏昭外交回想録 』(共編著、2020年、吉田書店)がある。

Foresight 2020年11月15日掲載

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