落合超えもあるか ヤクルト「村上宗隆」が受け継ぐ2人の“若き4番打者”の系譜

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 コロナ禍の中で試合数減を余儀なくされたプロ野球の2020年シーズンも間もなく終了する。そんな中、2年連続の最下位に甘んじそうなヤクルトにあってシーズンを通じて4番を任され、その期待に応えて打線を引っ張ったのが若き主砲、今年20歳の村上宗隆だ。

 村上は熊本・九州学院の出身で、甲子園出場は1年夏の1回だけだったが、公式戦通算52本塁打を記録するなどその桁外れの長打力には多くの球団が注目した。2017年のドラフト会議ではヤクルト、巨人、楽天の3球団が競合し抽選の結果、交渉権を得たヤクルトが獲得した。

 高校時代、主に捕手を務めていた村上はプロ入り後、打力を生かすために3塁手にコンバートされる。1年目の18年には9月16日に初めて1軍登録され、同日の広島戦に早くも6番で先発出場し、2回の初打席で岡田明丈からプロ入り初打席初本塁打をライトスタンドに叩き込んだ。この年のヒットも本塁打もこの1本だけだったが、「大物」の片鱗をしっかり見せつけたデビューとなった。

 2年目の19年は開幕からスタメンで起用され、春先から本塁打を量産する中、5月12日の巨人戦ではプロ入り初の4番で登場した。ドラフト以降では2人目となる「10代の4番打者で本塁打を記録した選手」となった。結局、この年の村上はチームでただ1人、全143試合に出場、36本塁打96打点、打率.231をマーク。8月22日には高卒2年目の選手としてセ・リーグでは史上初めてとなるシーズン30号本塁打を打っただけにとどまらず、最終的には怪童・中西太(西鉄)が持っていた高卒2年目以内でのシーズン最多本塁打記録に並んだほか、同じく中西のシーズン最多打点記録を更新、その活躍で文句なく新人王に選ばれた。

 そして、3年目の今シーズン、チームが低迷する中にあって孤軍奮闘。課題であった確実性が向上して昨年リーグ最下位だった打率が大幅にアップして、三冠王が狙える活躍を見せおり、昨年の成績が決してフロックではなかったことを自ら証明した。今の村上を見ていると、近い将来、三冠王の最年少記録である落合博満(ロッテ)の28歳10カ月を大幅に塗り替えることも夢物語ではないだろう。

 さて、先ほど村上はドラフト以降では史上2人目となる「10代の4番打者で本塁打を記録した選手」と書いたが、そんな若き4番打者、もう1人は誰かといえば、もちろんあの選手しかいない。清原和博である。

 PL学園では、1年生で早くも4番を打ち、春夏合わせ5大会連続で出場した甲子園では優勝した3年夏に当時の1大会の記録となる5本塁打を放つなど、今も最多記録となっている通算13本をマーク。日本中にその名を轟かせた。

 スーパー高校生、清原はドラフト1位で西武に入団。86年にルーキーイヤーを迎える。オープン戦ではプロの水に慣れず、本塁打を1本も打てずにシーズンに入ったが、4月5日、開幕2戦目の南海戦に途中出場でデビューすると、第2打席で藤本修二からプロ初安打・初本塁打・初打点となる一発を記録。ここから快進撃が始まった。

 スタメンに名を連ねるようになり、当初8番でスタートした打順も5月27日には5番に上がり、ペナントレース終盤10月7日のロッテ戦では4番に抜擢されると、その試合で10代の4番打者としての初本塁打を記録。さらに1引き分けを挟んで異例の8連戦となった広島との日本シリーズでも全試合で4番に起用されるなど、高卒1年目からチームの中心打者として活躍した。

 結果的に、清原の1年目の成績は126試合に出場し、31本塁打78打点、打率.304。打率と打点は榎本喜八(毎日・打率.298、67打点)、本塁打は豊田泰光(西鉄・27本)を破る新記録となったが、高卒新人の3割、30本はまさに空前絶後。今後長くプロ野球が続こうとも、この記録を破る選手はおそらく現われないのではないだろうか。

 前述したようにドラフト以後は清原、村上の2人だけだが、清原の前は誰だったのかといえば、62年に「18歳の4番打者」として話題を集めた土井正博(近鉄)だ。大阪の大鉄高を2年で中退して入団した土井はこの時2年目。1年目はファームでくすぶっていたが、その才能に注目したのが61年のオフに監督に就任した別当薫だった。

 別当はすぐに土井を4番として起用した。しかし、土井はなかなか結果を出せず別当に4番から下ろしてくれるように直訴したこともあるという。すると別当は「打てないお前より使っている俺のほうが苦しいんだ」という「名言」を吐き、「将来の近鉄にはお前が絶対に必要になる」といって絶対に4番を外そうとはしなかった。

 この年、土井の成績は5本塁打、43打点、打率.231.たしかに清原や村上には遠く及ばないものだったが、それでも翌63年には13本塁打、74打点、打率.276と覚醒。以後、別当の言葉通り近鉄の中心バッターとして長く活躍、通算2452安打465本塁打を積み上げて球界を代表する選手となった。

 実は、この土井が清原と深く関わっている。というのは、ルーキーの清原を打撃コーチとして指導したのが土井だったのだ。前年の85年、2軍打撃コーチだった土井に清原の指導を命じたのが当時の球団管理部長、根本陸夫。「球界の寝業師」といわれた人物だ。

 ところが、何十年に1人のゴールデンルーキー清原をどうやって教えたらいいのか、初めて1軍のコーチになった土井は悩みに悩む。すると根本は「余計なことは何もいうな。黙って見ておけばいい」とアドバイスしたという。

 とはいっても、土井は本当に何もいわなかったわけではない。その時々で的確なアドバイスを送り、清原の良き相談相手にもなった。

 結果は前述の通り。24年の時を経て当事者から当事者へと歴史は引き継がれた。その“若き4番打者の系譜”をヤクルトの若き主砲、村上がそれを継承していくことを願っている。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年11月6日掲載

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