戊辰戦争の「敗者」をたどって 新・日本人のフロンティア(9)

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 毎年夏の休暇には海外旅行をすることが多い。今年は新型コロナでどこにも行けないので、上越、東北方面に、5泊6日のドライブ旅行をした。最近、明治維新について書いたのだが(『明治維新の意味』新潮選書、2020年9月)、基本的に勝者の側を中央から見たものだったので、敗者の地も訪ねてみたくなったのである。

 その前提に、ごく簡単な大枠の事実経過を示しておきたい。

 鳥羽伏見の戦いが勃発したのが明治元年(慶應4=1968=年)1月3日、将軍徳川慶喜が大坂から船で江戸に戻ったのが12日、江戸城無血開城が4月11日だった。これに不満な彰義隊も、5月15日、新政府軍によって制圧された。

 この間、東北では、藩によって立場が違い、また各藩の中でも様々な意見があったが、5月の初めにかけて、奥羽25藩が同盟を結んで新政府と対抗する構図となった。それに長岡など越後勢が加わって、5月6日、31藩による奥羽越列藩同盟となった。

 しかし、この奥羽越列藩同盟の抵抗は、9月12日仙台藩、22日会津藩、23日庄内藩が降伏して、5カ月で終了した。あとは函館の抵抗が残っただけだった。

河合継之助の善戦:長岡

 さて、私の旅行の1日目には、かつて学長をしていた国際大学(新潟県南魚沼市)を訪問して、その近くに泊まった。今回は行かなかったが、もう少し新潟方面に行くと長岡である。長岡は戊辰戦争のなかでも激しい戦闘が行われたところの1つである。

 長岡藩は表高7万4000石、内高11万石余の小藩だったが、牧野家は老中を出す譜代の名門だった。そして若きリーダー河井継之助のもと、英米の武器商人から最新鋭の武器を買い集め(そのなかには、当時最先端で日本に3門しかないガトリング砲という初期の機関銃もあった)、軍制度も改革して、奥羽列藩同盟にも属さず、官軍にも降らず、武装中立の方針をとろうとした。

 しかし、官軍の側のリーダーが功名心にはやる若者(岩村精一郎、土佐)で、高圧的な態度をとったため、慶應4年5月2日、交渉は決裂し、戦争が勃発した。

 長岡藩は善戦し、一度奪われた長岡城を7月24日には奪還して、新政府側を驚かせた。その驚きは、当時の新政府軍のリーダーだった山縣有朋の記録にも見て取れる。しかし大勢は覆せず、7月29日、長岡城は再び官軍に奪われた。河井もこの間の戦闘で重傷を負い、多数の同志とともに再起を期して会津に落ち延びた。途中は険しい道で、八里が八十里にも感じられるというので、八十里越という名前がついている。河井の一行は8月5日、会津の只見村に到着し、そこで会津藩から派遣された幕府側第一の名医、松本良順の診察を受けるが、すでに手遅れだった。河井は12日、もう一度会津を目指すが、16日、近隣の塩沢村で没した。

 越後にはこれと類似した悲劇が少なくない。たとえば山本五十六である。日独伊三国同盟に反対し、対米戦争に反対したが、もし戦争となれば、相当の戦果を上げてみせるといい、実際、真珠湾攻撃を成功させた。しかし、それがアメリカの結束を産み出してしまい、山本自身も、1943年4月、米軍機に撃墜されて死亡した。

 3人目に思い出すのは、ビルマのバー・モウである。バー・モウは、ケンブリッジなどで学んで弁護士、法学博士となり、自治運動に加わって、英領ビルマの首相となり、戦争中は日本と結んで1943年、独立政府の国家代表兼首相となって、同年の大東亜会議にも参加した。しかし日本が敗戦したため、GHQ(連合国軍総司令部)の追及を逃れて、南魚沼の薬照寺に潜伏する。1945年8月の敗戦から、日本が巻き返す可能性はゼロだった。12月に出頭して逮捕されるが、雪深い越後で、どのような気持ちで暮らしていたのだろうか。

 河井継之助、山本五十六、バー・モウと、いずれも非凡な人物だったことは、間違いない。しかし、やや酷な言い方かもしれないが、大局を見通した行動がとれなかったのである。

 私は前から河井が落ち延びた道を通ってみたいと思っていた。この旅行の2日目は、南魚沼から会津に向かった。河井が通ったのは三条から只見に向かう八十里越であるが、国道289号線が未通なので、南魚沼から只見に行く六十里越、国道252号線を通った。その途中には、多くの雪避けのシェルターがあり、それでも冬は通行不能となる。この252号線は、田中内閣の時に完成し、峠の頂上には、田中角栄の筆になる碑がたっている。しかし、この道路を今後も保守していけるだろうか。高度成長期に作ったインフラを、選択縮小して、保持する工夫が本格的に必要ではないだろうか。

 途中には、やはり高度成長期に作られた日本有数のダムである田子倉ダムと田子倉湖がある。とても美しい湖だ。また国道252号線とからみあうようにJR只見線が走っている。日本の秘境線の1つとして有名である。そして福島県の只見町塩沢にある河井継之助記念館に立ち寄った。長岡にも河井継之助記念館があり、その人気をうかがわせる。

士道を貫いて:会津若松

 それから会津若松に行った。会津の悲劇は1862年、松平容保が京都守護職を命ぜられたことに始まる。それが非常な難事であることはわかっていた。しかし会津の始祖、保科正之は幕府に対する絶対の忠誠を遺言としており、断り切ることができなかった。会津藩は力のある藩(表高23万石、内高40万石)であり忠誠心の強い藩であるがゆえに任命されたのである。

 京都では、文久3年8月の政変や禁門の変で、幕府や薩摩とともに組んで長州と戦った。新撰組もその配下として活動した。それゆえ、幕府の勢いが衰えたとき、倒幕派の恨みをもっとも強く受けることになった。鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍や桑名藩とともに戦って敗れ、藩主の容保は慶喜とともに江戸に戻ったが、さらに会津に戻った。そこで京都に対して恭順の意を表したが、朝敵の首魁とされて許されず、戦争となった。

 会津の士道はよく知られたものだったらしい。藩校の日新館における教育は厳しいものであった。6歳から9歳にかけて、藩士の少年は10人ずつの組に入り、什(じゅう)の誓いというものを誓った。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ

一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ

一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

 会津ないし奥羽越列藩同盟と新政府との戦いは、東北の入り口である白河の関を入ったところ、白河小峰城をめぐる攻防(慶應4年閏4月20日~5月1日)で始まった。これを制した新政府軍は、二本松城を陥落させ(7月29日)、母成峠の戦いに勝利し(8月21日)、若松城に迫った。そして約1カ月の籠城戦ののち9月22日、会津藩は降伏した。

 この間、少年を組織した白虎隊の悲劇は有名であり、また多くの婦女子が足手まといにならぬよう、自決している。家老の西郷頼母の屋敷では、頼母の母、妻、2人の妹、それに5人の娘が自決している場面が再現されていて、衝撃的だった。と同時に、何も自決しなくても、生きていればいろんなことができたのにと思った。ちなみに、西郷頼母は恭順派であり、それゆえに藩を追われ、結果として戊辰戦争を生き延びた。

敗北をバネに

 会津藩の悲劇は、明治維新でも屈指のものだろう。

 松平容保は丸腰の白装束で降伏するという屈辱を味わい、死一等を減ぜられ、鳥取藩に預けられた。

 会津藩領はいったん没収とされたが、明治2年11月、容保の長男、松平容大による家名存続が許され、陸奥斗南藩3万石が与えられた。しかし、斗南の土地は痩せていて、実質は7000石程度であった。実高40万石の大藩、4700名の藩士が7000石の地に移されたのである。極寒の地の生活の凄絶な様子は、柴五郎の回想に詳しい(石光真人編著『ある明治人の記録』中公新書)。

 斗南藩は、明治4年7月の廃藩置県により斗南県となったが、9月には青森県に(一部は岩手県に)吸収されたので、斗南藩、斗南県が存在したのは2年に満たなかった。

 その後、西南戦争が起こると、政府軍を補うために警官が募集され、会津から応じた者は「戊辰の敵」と叫んで西郷軍に切り込んだ。中でも勇猛ぶりをうたわれたのは佐川官兵衛で、薩摩側からは鬼の官兵衛と恐れられたが、戦争のさなかに戦死している。

 さきに触れた柴五郎は、義和団事件などで活躍し、藩閥全盛の陸軍の中で大将にまで昇進した人である。しかし、かつての恨みを忘れることはできず、西郷隆盛が自決した時も、大久保利通が暗殺された時も、国家の柱石だろうと何だろうと、何の感傷も同情も感じないと述べている。

 その他に、敗戦の屈辱をバネに多くの人物が出ている。たとえば山川健次郎は、白虎隊の一員だったが(年少で出陣はできなかった)、イェール大学で物理学の学位をとり、東京帝国大学総長、九州大学総長、京都大学総長となり、枢密顧問官、男爵となっている。

 ところで、会津戦争において、日頃圧政に苦しんでいた農民は、会津藩に対して同情せず、冷淡であり、政府軍に協力するものもあったらしい。板垣退助はのちに、自由党を結成した動機として、会津の戦いの時に、農民が傍観していたのを見て、国民が参加せず、国民の支持がない政府は危ういと考えたと述べている。

 なお、松平容保の6男、松平恒雄は、一高、東大を経て外務省に入り、外務次官、駐米大使、駐英大使を務め、1936年、宮内大臣となって(~45年)天皇の最側近を務め、戦後は参議院議長となっている(1947~49年)。 

 1928年、恒雄の長女節子は秩父宮雍仁親王と婚約が内定した(雍仁親王の実母である貞明皇后の名が節子(さだこ)だったので、勢津子と改名している)。かつて朝敵と蔑まれた会津の人々は、この報道に狂喜乱舞した。

 付言すると、昭和天皇の弟の高松宮の妃も、徳川慶喜の孫であり、昭和天皇の皇后であった香淳皇后も、幕末に徳川慶喜を支持して薩長と対立し、いったんは親王の地位を剥奪された久邇宮朝彦親王の孫であった。皇族の婚姻は、このように和解・統合の役割を事実として担っていたのである。

猪苗代から米沢へ

 さて、3日目は、まず猪苗代湖畔の野口英世記念館に行った。野口は、貧困の中から猛烈な勉強で頭角を現し、アフリカに黄熱病の研究に行き、みずから感染して没した。私はニューヨークにいたとき、日本クラブという社交場があって、よく行ったものであるが、野口はここにしばしば将棋を指しにきたという。同胞が懐かしかったのだろう。

 野口の性格についてはいろいろ批判もあるようだが、その行動力は本当にすごい。1920年代のガーナというと、本当に何もない危険なところだった。野口を記念した研究所は、現在、ガーナで新型コロナ対策の最前線で活躍している。

 そのあと、北上して米沢に出て、上杉神社に参拝した。いうまでもなく、上杉謙信を祀った神社である。

 米沢は割合早く降伏している。それも無理はない。かつて120万石だった上杉家は、関ヶ原の戦いで徳川に敗れて領地を削られ、30万石となり、さらに削られて15万石程度となっていた。幕府に対する報恩意識はあまりなかった。そこに、藩主の正室が山内家の娘であった関係から、土佐から降伏勧告の書簡が到達し、米沢藩は降伏することに決した。

 米沢のあとは西に向かって、新潟県の村上市に泊まった。その途中の関川村には、渡邉邸という豪邸がある。当時は米を中心とする経済であり、大地主がいたということであるが、山間の村に、立派な邸宅があることに驚いた。なお、このあたりはマタギもいるらしく、熊も出るらしい。伝統が残っている地域である。そして、村上市は鮭の町として知られている。また西を向いた浜辺の夕日が美しい。

 4日目は北上して、山形県と秋田県の県境、鳥海山の中腹までドライブした。その近くで、思いがけず、石原莞爾の墓を見つけ、立ち寄った。石原莞爾の特異な戦略思想に戊辰戦争の影響があるかどうか、これから考えてみたい。

固い結束:庄内

 5日目は酒田と鶴岡に行った。

 ここは庄内藩に属し、鶴岡に城があり、酒田にも支城がある。庄内藩は、表高14万石、実質20万石以上、時には30万石以上と言われた。

 庄内藩は有力な藩であったため、幕末に江戸市中警備を命ぜられた。そして慶應3年、京都で大政奉還が実現し、幕府は消滅したものの、徳川氏が雄藩をリードする体制ができそうになったとき、薩摩は徳川氏に一撃を加えようとして、薩摩江戸藩邸を根城に江戸市中で放火・強盗を行なって、徳川方を挑発した。これに激昂した徳川方は、ついに薩摩藩邸を焼き討ちした。その主力が庄内藩だった。それゆえ庄内藩は会津藩に次ぐ「朝敵」とされたのである。

 藤沢周平の小説に登場する架空の藩「海坂藩」は、この藩をモデルにしている。貧しい中に意地と義理を貫く武士道の理想を、ここに見る人も多いだろう。私も愛読者の1人である。しかし、本当の庄内藩はもっとダイナミックなところだったかもしれない。

 酒田は最上川の河口に築かれた商都で、北前船による交易で江戸時代には繁栄した。日和山公園から見る河口の眺めは雄大で、有名な大地主の本間家の屋敷や、上方にまで知られた豪商の鐙屋の屋敷も見ることができた。かつての倉庫もまだ残っている。

 こうした富を背景に、庄内藩は本間家などの支援で最新鋭の武器を調達して、官軍に対して善戦し、戦闘においてはほとんど負けなかった。しかし大勢に利はないとみて降伏し、致命的な被害は出さなかった。

 庄内藩は、譜代の酒井氏が江戸時代に移転されそうになったとき、領民が反対して、やめさせたことがあった。そのように、藩主、家臣、領民の結束が固く、戊辰戦争でも2000人の農民や町人が参加、300人以上の死者を出している。そして、戦争後に藩主の酒井忠宝に対して移転の処罰が行われようとしたとき、家臣領民をあげて30万両の献金をして、明治政府に納め、藩主を領内に呼び戻した。

 藩校は致道館という。その特色は荻生徂徠(1666~1728)と密接な関係があったことで、水野元朗や疋田進修が徂徠に学び、そののちも庄内藩の儒者は多く徂徠の門に学んだという。水野や疋田は徂徠に手紙で学説上の様々な疑問を記し、徂徠はこれに丁寧に答えた。この往復35通をもとにしてまとめられたのが、『徂徠先生答問書』であり、現在でも徂徠の重要な著作の1つと考えられている。寛政異学の禁(1790年)で徂徠学は中央では排斥されたが、致道館の伝統は変わらなかった。徂徠学の要点は、画一性を排除し、少人数で徹底的に議論することを特徴としたという。

敗者を取り込む寛大さ

 6日目は帰路につき、途中でいくつかのところに立ち寄った。

 まず、奥羽越列藩同盟が結ばれた白石城(宮城県白石市)に行った。ここは仙台藩の城である。そこに、仙台藩の迷いが見て取れる。奥羽越列藩同盟の顔ぶれを見れば、リーダーたりうるのは62万石(内高100万石)の仙台藩しかなかった。しかし、仙台藩としては、全力を挙げて新政府軍と戦う理由はなかった。そうした状況で、仙台藩は明確な方針を定められず、結局朝敵とされ、敗者の汚名を着せられ、石高も62万石から28万石へと削減された。

 それから二本松にも立ち寄った。よく戦って敗れた藩の1つである。ここでも少年兵が犠牲となったことは、白虎隊についで有名である。

 二本松からは朝河貫一が出ている。1873年に元二本松藩士の子に生まれ、早稲田大学に学び、ダートマス大学に編入し、イェール大学大学院に学んで博士となり、ダートマス大学講師からイェール大学教授になった(1937年)。歴史学者として著名であるが、日米対立を避けるために尽力した。日露戦争後の日本の外交を批判した『日本の禍機』(1909年)は、現代の研究水準から見ても、鋭い洞察に満ちた立派な著作である。

 最後に郡山の大久保神社を見た。安積疏水の建設を決断した大久保利通を祀った神社である。大久保は、廃藩置県や秩禄処分などを断行したが、犠牲となる士族のことも忘れていなかった。この難工事も、士族授産を目的としていた。それを地元の人は称えたのである。

 明治維新は日本にとって不可欠の革命だった。相対的に犠牲者は少なかったが、それでも多くの悲劇があった。しかし、その悲劇をバネとして、敗者の側からは多くの人物が出た。また勝者の側にも敗者を取り込もうとする寛大さがあったのである。

プロイセンが噛んでいたら

 ところで、最近の研究で、会津藩・庄内藩とプロイセンの間に興味深いやりとりがあったことが明らかになっている。両藩は、幕末に蝦夷地の一部(根室、留萌など)を領有していたが、両藩はプロイセンに対し、明治元年7月頃、蝦夷地を提供するかわりに資金援助ないし軍隊派遣を求めたらしいのである。プロイセンの首相オットー・ビスマルクはこの提案を断り、しばらくして、再び関心を示していたという(箱石大編『戊辰戦争の史料学』勉誠出版)。

 当時、ドイツはまだ統一されていなかった。ビスマルクの最大の課題はドイツ統一であった。普墺戦争が1866年、普仏戦争が1870年であった。その間のこの時期に、イギリスと対立することになる会津藩・庄内藩支援に消極的だったことは理解できる。それに日本は遠かった。ただ、魅力的な案ではあった。それゆえビスマルクは再考したのであろう。いずれにせよ、もし、奥羽越列藩同盟からの要請がもっと早く、プロイセンのアジアへの関心がもっと早かったら、そしてドイツ側の指導者がヴィルヘルム2世のような野心的・冒険的な人物だったら、プロイセンは幕末・維新のアクターとして登場し、その結果、戊辰戦争はもっと大きな戦争になり、日本の一部は植民地化されたかもしれない。

 新潟、福島、山形の各地は、いくつかはすでに訪ねたことのある土地である。またその歴史も、ある程度は知っていた。しかし、歴史の流れを追いながら、 こうした土地を訪ねるのは、また格別である。私は東北の地の落ち着いた美しさ(とくに羽黒山の五重塔は素晴らしい)を十分に知らなかったことを恥ずかしく思うと同時に、長岡、会津、庄内等の諸藩の教育と財政と戦略的思考のありかたを比較して考えることができたのである。

北岡伸一
東京大学名誉教授。1948年、奈良県生まれ。東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。立教大学教授、東京大学教授、国連代表部次席代表、国際大学学長等を経て、2015年より国際協力機構(JICA)理事長。著書に『清沢洌―日米関係への洞察』(サントリー学芸賞受賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞受賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞受賞)、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『国連の政治力学―日本はどこにいるのか』、『外交的思考』、『世界地図を読み直す】など。

Foresight 2020年11月5日掲載

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