紀元前から存在する演劇の力を信じて――吉田智誉樹(劇団四季代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】

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演劇の「一回性」

佐藤 スポーツやコンサートなどは無観客の試合や公演がありましたが、半分の観客でも俳優にはかなり勝手が違うのではないかと思います。というのも、私が外務省に入って2年目に東京サミットがあったんですね。この時、G7の首脳夫人ら7人に歌舞伎座で歌舞伎を観ていただくことになった。そうしたら、松竹から待ったが掛かったんです。

吉田 そんなことがありましたか。

佐藤 私は裏方で松竹の方と打ち合わせをしていたのですが、彼らから、あなたたちはまったく歌舞伎がわかってない、と。舞台というものは、お客さんと一緒に作っていくものだ、7人しか観客がいないところで歌舞伎役者は演じられない、だから席をいっぱいにしてくれと、それは厳しく言われましたね。

吉田 松竹の方がおっしゃっている通りだと思います。演劇は、興行側だけでは成り立ちません。舞台の上の俳優とお客様に通じ合うものがあって、初めて成り立ちます。

佐藤 あの時はすぐにも席を埋めなければならなかったのですが、一方でセキュリティの問題があった。席を埋めるのに誰でもいいわけではない。

吉田 どうされたのですか。

佐藤 警察学校に頼みました。だから夫人たちの他は全員若い人ばかり、しかも目つきが鋭かったり、体型がいかつい感じだったりで、カップルがいても婦人警官とのコンビです。

吉田 それは見てみたかった(笑)。

佐藤 やっぱり舞台の本質は、観客と共有するその一回性なんですよね。

吉田 はい。演劇は常にお客様に同じ場所、同じ時間に来ていただかないと成り立たない芸術です。そこが絵画や小説、音楽とは違います。その同時性と一回性がお客様の心を動かし、特別な体験となる。

佐藤 私が研究しているキリスト教神学も、実は一回性の研究と言えるんですね。イエス・キリストがこの世に一回だけやってきた。その一回だけの生涯を、何度も何度も解釈し直すというのが神学なのです。

吉田 そうなのですか。お客様が劇場に足を運んでくださる理由も、この一回性の魅力だと思います。

佐藤 私は同志社大学神学部で教えていますが、いま講義をZoomでやっています。でもYouTube配信にはしない。Zoomも録画はできますが、学生たちには、一回だけと思ってやらないと力がつかないよ、一回性は神学に内在している論理だから、と話しています。

吉田 この状況に対応するために、私たちもライブ配信などを考えねばなりません。しかし、演劇の同時性や一回性を、お客様が満足を得られるレベルで代替する技術というのはまだ見つかっていません。

佐藤 ちょっとしたその場の空気の動き、人が笑ったり、ため息をついたりすると、わずかでもそこに風が生じますからね。それはそこにいないとわからない。

吉田 そうです。そこが再現できなければ、演劇にならない。浅利慶太は「劇場からの糧だけで生計を立てる」ことを劇団のモットーとしました。日本では、いまでも演劇だけで生活することは難しく、映像や広告など近接業界との兼業で生きている人がほとんどです。「プロの演劇人」は数少ない。我々は浅利から、プロとして「劇場からの糧だけ」で生きることを叩き込まれて育ちました。そこへこのコロナ禍がやってきた。劇団の「一丁目一番地」を襲われた思いでいます。

カリスマの後を継いで

佐藤 吉田さんが初めて浅利さんにお会いになったのはいつですか。

吉田 高校2年の時です。通っていた高校の行事で、劇団四季のミュージカル「アプローズ」を観に行きました。当時、私は演劇部の部長だったんです。

佐藤 高校で演劇をされていたんですね。

吉田 そうです。観終わった後に、演劇部の部長だからと、先生や友人に促されて、楽屋へ花束を持って挨拶に伺ったんです。

佐藤 なるほど。

吉田 主演していた前田美波里さんの楽屋を訪ねて花束を渡し、「私も神奈川県出身なのよ」という話を伺っていたら、背後から背の高い男性が接近してくる気配があった。それが浅利慶太でした。「今日はいいお芝居をありがとうございました」と頭を下げたのですが、完全に無視(笑)。そしてすぐ隣の楽屋に入っていったと思ったら、激しい怒鳴り声が聞こえてきた。何かが気に入らなくて、ダメ出しに行ったわけです。それが浅利との初めての出会いですね。と言っても、正確には目撃しただけですが(笑)。

佐藤 高校生としては衝撃ですね。

吉田 厳しい人とは聞いていましたが、迫力は想像以上でした。後年、この話を浅利にしたら、お前は昔から間が悪かったんだな、と言われました(笑)。

佐藤 こうした出会いも一回性です。もし浅利さんが、「高校の演劇、頑張って」とか言ったら、興味も持たなかっただろうし、吉田さんの人生も違うものになったかもしれない。

吉田 学校行事以外にも、自分で小遣いを貯めて劇団四季の舞台を観ていました。観劇した一作に、「ジーザス・クライスト=スーパースター」がありました。イエスを「異化」して描く構造を持っている、ロイド=ウェバーの出世作です。

佐藤 それは神学的にはど真ん中の見方ですよ。

吉田 象徴的なのが「ハンドマイクの使用」でした。当時は出演者が皆、コードのついているマイクを手で持って歌っていた。つまり、これはショウだということですね。このマイクのコードを、群衆役の俳優たちが見事に捌きながら演技をするのです。その動きの完璧さに目を見張りました。あの怒鳴り声がこういう世界を作り出し、演劇のプロをプロたらしめるのかと感じ入りましたね。

佐藤 吉田さんはそこで一つの小宇宙を見たんです。その小宇宙から、世界全体がわかるというような感覚を身体全体に覚えたのではないでしょうか。

吉田 そうかもしれませんね。

佐藤 大学でも演劇をされたんですか。

吉田 演劇研究会には入りましたが、学費を自分で稼がなくてはならなくなって、短期間で辞めてしまったんですよ。

佐藤 演出家とか脚本家は考えませんでした?

吉田 自分で書いた作品を上演したこともありましたが、アマチュアの域を出ていないという自覚はありました。

佐藤 でも就職活動では劇団四季を受けたわけですね。

吉田 あの浅利慶太にもう一度会えるとしたら、就職試験しかないと思ったんです。最終面接まで行けば会えるだろうと思いました。

佐藤 やっぱり強烈な印象が残っていたわけですね。

吉田 大学時代は劇団四季よりも小劇場演劇をよく観ていました。なかでも寺山修司さんに惹かれていたのですが、寺山さんの本にも浅利が出てくるんです。劇団四季にはトラディショナルなイメージを持っていましたが、草創期は前衛だったことを知り、高校時代の興味が蘇りました。せっかくの機会ですし、面接で会えたらいろいろ聞こうと、質問を考えていました。驚いたことに、浅利は1次の集団面接から出てきたのです。2次に進んだら、もう一対一の面接でした。浅利から開口一番、「君は僕の大学の後輩だけど、同じ歳の時には劇団を作ってそれで食っていくことを決めていたよ。君も自分で劇団を作って生きていけばいいじゃないか」と言われたんです。衝撃でしたね。あまりに混乱して何も聞けませんでした。

佐藤 それは後継者を探していたということではないですか。

吉田 どうでしょうかね。採用試験とは、組織が相応しい学生を選抜する場だというイメージを持っていましたが、全く型破りな面接だった記憶があります。

佐藤 いずれ将来、自分が作った劇団を誰かに託さねばならない。その潜在的可能性を見ていたのではないかと思いますよ。

吉田 いま振り返って思うのは、この仕事は非常に厳しい、だから自分が創業するくらいの気持ちじゃないとやっていけないということを間接的に伝えようとしたんじゃないかなと。

佐藤 カリスマ的存在だった浅利さんの後を継がれた吉田さんには、また別の大変さがありますでしょう。

吉田 浅利がいた頃は、とにかく彼についていけばよかった。いまは責任あるメンバーが集まって、一つ一つ協議して決めています。ただ浅利の作った四季のビジネススキームは本当によくできている。ロングランを成功させれば経営も安定しますし、それは新たな魅力ある作品の確保にも繋がります。作品が増えれば俳優たちの出演機会も増え、所得も安定する。そうすると入団を志す若者が増え、出演者のレベルも高くなる。これがお客様を更に満足させて、ロングランが続いていくという循環ですね。

佐藤 それがコロナで揺らいでいるわけではない。

吉田 スキームそのものは変わっていません。コロナが終息すれば、以前のような循環は必ず戻ってくるはずです。ただ、浅利が言っていた「劇場からの糧だけで」の「だけ」の部分は、取らなければいけないかもしれない。演劇の周辺でマネタイズできることには、チャレンジしたいと思っています。でも、変化するのはそれだけ。私たちの中心にあるのはあくまで生の演劇です。演劇そのものは紀元数世紀前から存在し、現在まで生き残ってきた「しぶとい芸術」です。その間には戦禍もあったし、疫病の流行もあった。でも滅びてはいません。それは演劇が持つ魅力を他のどんなものも代替できないからです。技術が進んでも、生の舞台が伝える感動は超えられない。だから演劇という芸術がこの世から消えてなくなることはないはずです。それを信じて、生き残るために定めたプランを一歩ずつ進んでいこうと思っています。

吉田智誉樹(よしだちよき) 劇団四季代表取締役社長
1964年横浜市生まれ。慶應義塾大学文学部卒。87年四季株式会社(劇団四季)入社。主に広報営業関連セクションを担当し、東京、札幌、名古屋、大阪、福岡など四季の拠点都市に勤務。2002年制作部広宣・ネットグループ長、04年執行役員広宣部長、08年取締役広報宣伝担当を経て、14年に浅利慶太氏から社長を引き継ぐ。

週刊新潮 2020年10月15日号掲載

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