「韓国民間人」射殺で文在寅「威信失墜」金正恩「謝罪」の波紋(下)

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 徐薫(ソ・フン)国家安保室長は9月25日午後2時、北朝鮮の党統一戦線部から「通知文」が送られて来たことを明らかにした。

金正恩の異例の「謝罪」

 通知文の中には、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が、

「そうでなくても悪性ウイルスの病魔の脅威に処した南側の同胞に、助けの手どころかわれわれの水域でかんばしくないことが思いがけなく発生して、文在寅(ムン・ジェイン)大統領と南側同胞に大きな失望感を与えたことに対して非常に申し訳なく思う」

 と伝えるよう話した、と書かれていた。

 北朝鮮の最高指導者が、事件発生5日目に「非常に申し訳なく思う」という謝罪の意思を伝えてきたことは、金党委員長もこの事件を放置した場合、韓国民の反北朝鮮の感情が高まり、南北関係に深刻な影響を与えることを憂慮したためとみられた。

 韓国の次期大統領選挙は、1年半後の2022年3月に行われる。北朝鮮は文政権に冷たく対応しているが、次期大統領選挙で保守が勝利することは絶対に阻止しなくてはならない。北朝鮮が何をしても南北関係が破綻しないのは進歩政権だからだ。

 今回の事件は、南北関係の改善を最優先課題にしている文政権に本質的なダメージを与えかねない。文政権がレームダック化し、次期大統領選で保守が勝利すれば、北朝鮮の利益にはならない。

 北朝鮮は6月に南北共同管理事務所を爆破して、韓国民に大きな打撃を与えたばかりであり、非武装の民間人を銃殺するという非人道的な行為は、北朝鮮への反感を決定的なものにする危険性があると判断したといえる。

 また、北朝鮮は経済制裁、新型コロナウイルス、水害という3重苦の中で経済的な困難の中にある。11月の米大統領選挙の結果を待ちながら、次の路線を模索している状況だ。対米非難、対南非難も控え、国内問題に集中している。

 この事件で南北関係が予測できない緊張関係に入れば、金党委員長にとっては政策選択の幅を狭めることになるだけに、早期に謝罪して事態収拾に乗り出したともいえる。

 北朝鮮の最高指導者が謝罪した事例はあまり多くなく、異例だ。1976年、板門店で北朝鮮軍が米兵らをオノで殺害し、緊張が高まった際に、当時の金日成(キム・イルソン)主席が「遺憾の意」を表明して事態を収拾したことがある。

 また、1968年1月に北朝鮮の武装ゲリラが青瓦台(大統領府)を襲撃しようとした事件について、金正日(キム・ジョンイル)総書記が2002年5月、訪朝した朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の娘の朴槿恵(パク・クネ)氏に「申し訳ない気持ち」を表明したことがある。

 今回は若い最高指導者が比較的、率直に謝罪したといえる。それも韓国への「通知文」という公式の文書で謝罪したのも異例だ。

 しかし、こうした「論理」は、硬直した北朝鮮体制の特性を理解している南北問題の専門家には理解できても、韓国の一般国民が素直に金党委員長の謝罪を受け入れるかどうかは別の問題だ。「殺人者が申し訳ないといったといって、ありがとうといえるのか、許せるのか」という感情こそが一般国民の反応であろう。韓国民が北朝鮮の特殊性をどこまで理解するかだが、それは容易ではなく、北朝鮮の非人道的な蛮行に怒ることこそが普通の反応だろう。

南北の事実関係認識に食い違い

 また、北朝鮮側が「通知文」で明らかにした事件の事実関係は、北朝鮮軍がA氏を銃殺したこと自体は認めているものの、遺体を燃やした事実はないとするなど、南北の主張に様々な食い違いが出た。

 北朝鮮側の主張はこうだ。

 漁労作業中の水産事業所副業船から康翎郡金洞里沿岸の水域に正体不明者が侵入していると該当水域警備担当軍部隊に申告があった。軍部隊が浮遊物に乗って不法侵入した者に80メートルまで接近して身分確認を要求したが、最初は1~2回大韓民国の誰それだと言ったが、その後返事をしなかった。

 取締命令に口を閉じて応じないため、さらに接近して空砲を2発撃った。すると、正体不明対象が逃走するような状況になり、艇長の判断で、40~50メートルの距離から海上警戒勤務規定が承認した行動準則により10余発の銃弾を発射した。10余メートル近くに行き確認すると不明者の姿はなく大量の血痕が残っていた。

 不明者は射殺されたと判断し、侵入者が乗っていた浮遊物は国家非常防疫規定により海上現地で焼却した――という内容であった。

 南北の主張の違いは以下のような点であった。

 韓国側の事実関係の把握の多くは北朝鮮側の通信傍受によるもので、情報の正確性には限界がある。さらに、通常は公表しない性格のものだけに、韓国側がどこまで事実関係で北朝鮮側と争うか不明だ。また、A氏の遺族は「越北」の意思について否定的な見方を示しているため、遺族に通信傍受内容を聞かせるかどうかも今後の焦点だ。

「親書」の往来も公表

 徐薫国家安保室長は9月25日午後2時の会見で、金党委員長の謝罪を含む「通知文」を公表した際に、文大統領と金党委員長が最近、新型コロナ感染防止について親書を交わしたことにも言及した。

 徐薫安保室長はさらに同4時に再び会見し、文大統領が9月8日に金党委員長に送った親書と、金党委員長が9月12日に文大統領に送った親書の全文を公表した。

 最高首脳間の親書の内容などは公表しないことが原則だが、文大統領の指示で公表したという。

 文大統領は、

「私は(金正恩)国務委員長が災難の現場を直接訪れ、困難に直面している人々を直接慰労し、被害復旧を最も優先して前に向いて行こうという姿に深い共感を抱いている」

「特に国務委員長の生命重視に対する強力な意志に敬意を表します」

 と書き送った。また新型コロナや水害に言及しながら、

「互いに助け合えない現実は残念だが、同胞として心では応援し合い、勝ち抜いていくだろう」

 とした。

 一方、金党委員長は文大統領の親書に「深い同胞愛を感じた」と返した。その上で、

「困難と痛みを経験している南と、いつも共にありたい私の真心を伝える」

 と返信した。

 文大統領がお互いの親書の全文を公表したのは、金党委員長が謝罪の意思を伝えてきたことが、関係をこれ以上悪化させないためにも意味のあるものだと評価し、さらに南北の首脳同士の信頼関係や同胞意識を国民に伝えることで、銃撃事件により悪化した国民感情を乗り越えて南北関係の改善を図りたいためとみえた。

 しかし、文大統領が敬意を表明した「国務委員長の生命重視に対する強力な意志」が本当なら、なぜA氏は銃殺されなければならなかったのかと反発を覚える国民も多いだろう。

 文大統領の親書公開は、金党委員長の「謝罪」を受け入れるという姿勢の反映であり、A氏が銃殺されたことで悪化している国民感情とは明確な齟齬がある、といえよう。

 一般国民の視点から見れば、文大統領が北朝鮮の蛮行に怒る国民の側に立つのでなく、言い訳をする北朝鮮の側に立っているという印象を与えたことになる。

 親書を公開するなら、今回の事件とは区別して、事件が一段落した後に、新型コロナや水害の復旧という人道的な問題での南北協力推進に活用すべきであっただろう。まだ事件の真相解明や責任追及が終わっていない段階での親書公開は、逆効果であったようにみえた。

A氏は「越北」しようとしたのか?

 韓国政府は、A氏が北朝鮮へ「越北」しようとしたと判断している。一方、遺族はA氏に「越北」の意思はなかったと、韓国政府の判断を批判している。

 韓国政府の最大の判断材料は、A氏が北朝鮮に発見されてからの北朝鮮側との会話内容を、通信傍受から把握しているためとみられる。

 さらに、船に履き物だけが残っていたこと、A氏が北朝鮮側へ行こうとしなければ、潮流などを考えれば事件の発地点にたどり着くのは難しいこと、A氏に約3億3000万ウォン(約3000万円)の借金があったこと、離婚問題があったことなども、「越北」しようとしたと判断した根拠になったようだ。

 しかし、遭難の可能性が排除されたわけではない。漁業指導船に乗り、現場の海流などに詳しいA氏が救命チョッキと浮遊物だけで北朝鮮側に「越北」できると考えたかどうかは疑わしい。

 軍が最も「越北」の意思があった根拠にしている無線傍受の内容も、北朝鮮側に漂着したA氏が何とか助かろうと考えて北朝鮮側へ「越北」の意思があると述べた可能性も排除できない。さらに綿密な検証が必要だろう。

「国情院と党統一戦線部」の連絡ルートは維持

 北朝鮮の党統一戦線部の「通知文」の伝達や、南北首脳の親書の往来で明らかになったのは、すべてが切れたことになっていた南北間に連絡ルートが残っているという事実である。

 これは韓国の情報機関である国家情報院と北朝鮮の党統一戦線部の間の連絡ルートとみられた。北朝鮮から金党委員長の謝罪が含まれた「通知文」が到着した際には、朴智元(パク・チウォン)国家情院長自らがこの通知文を青瓦台に伝えたという。

 しかし韓国統一部は、A氏の行方不明を国防部が公表した翌日の9月24日に、記者から、

「北朝鮮から連絡が来たり、北朝鮮に連絡したりする計画はあるのか」

 と質問を受け、

「統一部には、この事件に関連して北側に連絡することのできる手段がない」

 と答えるしかなかった。

 拙稿『北朝鮮「韓国挑発」3つの理由(上)』(2020年6月25日)で記したように、北朝鮮は南北共同連絡事務所の爆破に先立つ6月9日に南北間の連絡ルートをすべて遮断すると一方的に通告し、その通り実行した。しかし、南北間で公になっていない国家情報院と党統一戦線部の連絡ルートは稼働していたのである。

 そうであるなら、なぜ、国防部が無線傍受で9月22日午後3時半に北朝鮮側がA氏を捕捉したことを探知した段階で、国家情報院がこの連絡ルートを使って党統一戦線部にA氏の安全確保を要請しなかったのか、という疑問が残る。

 A氏が銃殺されるのは同9時40分ごろであり、6時間の時間的余裕があった。金党委員長の「生命重視に対する強力な意志」に敬意を表する文大統領であれば、なぜ国家情報院へそれを指示しなかったのか。この時点での大統領への報告が行われていなかったとしても、国家情報院は国防部の傍受情報の連絡を受けていたであろう。生きている連絡ルートを使って、なぜ党統一戦線部に要請をしなかったのか。

 南北間のすべての連絡ルートが正常に稼働していれば、今回の事件は防げたはずだ。その意味で、南北の国民の生命の安全の確保という点でも連絡ルートの復旧が急務だ。

共同調査を求めるも北朝鮮は無視

 文大統領は9月27日午後3時から同4時半まで、自らが主宰して緊急の安保関係長官会議を開いた。

 徐柱錫(ソ・ジュソク)国家安保室第1次長はこの日の会議の結果として、

「北朝鮮の迅速な謝罪と再発防止約束を肯定的に評価する」

「南と北がそれぞれ把握した事件の経緯と事実関係に違いがあるので早急な真相究明に向けた共同調査を求める」

 と、北朝鮮側にあらためて共同調査を要求した。さらに、

「南北間疎通と協議、情報交換のために軍事通信線の復旧と再稼働を求める」

 と述べ、軍事当局者間の連絡ルートの復旧を求めた。

 しかし、北朝鮮の『朝鮮中央通信』は27日、この事件に関係して韓国側がA氏の遺体捜索を行っていることについて、北朝鮮の領海を侵犯する行為を即時中断せよと要求した。

 黄海上の南北の境界線については、韓国側は北方限界線(NLL)を境界線としているが、北朝鮮側は2007年に自らが設定した「西海(黄海)海上警備界線」を主張しており、『朝鮮中央通信』の報道は、韓国側が「警備界線」を越えたための領海侵犯だという主張とみられた。

 また、韓国は軍事当局者間の連絡ルートで通話を試みたが、北朝鮮側は通信線をオフにしたままで通話ができない状態だと分かった。

「なっていない危機管理」を露呈

 今回の事件は、文政権の危機管理がなっていなかったことを露呈した。危機管理の問題点は数多くある。それらを列挙すると以下のような点だ。

■無線傍受で9月22日午後3時半に、北朝鮮がA氏を発見した時点で、国家情報院と党統一戦線部の連絡ルートや板門店の国連軍司令部軍事停戦委員会の連絡ルートで、A氏の安全保証要請ができなかったのか?

■文大統領は9月22日午後6時36分に北朝鮮がA氏を発見との書面報告を受けながら、北朝鮮側に安全保証などの要請などをなぜ行わなかったのか?

■無線傍受で、9月22日午後9時40分にA氏銃殺の事実を把握しながら、なぜ翌朝8時半まで文大統領に報告しなかったのか? 国連の録画演説との関係はあったのか?

■A氏が銃殺されたことを国防部と青瓦台は知っていたが、海洋警察には情報共有されず、海洋警察はその後も行方不明捜索を行っていた。

■韓国軍は通信傍受などから北朝鮮が遺体を焼いたとしたが、それならなぜ遺体捜索を続けているのか? 後になり、与党の一部からは「遺体の破損」という軍の判断が誤った可能性があるという指摘が出ているが、遺体を焼いたという判断に自信がないのか?

文大統領の「謝罪」と金党委員長の謝罪「評価」

 文大統領は事件発生1週間後の9月28日午後2時、青瓦台で開かれた秘書官・補佐官会議で、A氏の遺族を慰労するとともに謝罪した。

 文大統領は、

「犠牲者がどのようにして北の海域に行くことになったのか、経緯に関係なく、遺族の傷心と悲嘆に深い哀悼と慰めの言葉を伝える」

「国民が受けた衝撃と怒りも十分に察して余りある」

 と、遺族に哀悼と慰労を表明した。さらに、

「極めて遺憾で不幸なことが発生した。いくら分断状況だとしても起きてはならないことだ」

「理由に関係なく、国民の生命と安全を守るべき政府として本当に申し訳ないという思いだ。こうした悲劇を2度と発生させないという約束と共に、国民の生命保護のための安全保障と平和の大切さを再確認し、政府の責務を強化するきっかけにしたい」

 と謝罪した。その一方で、

「北の当局は、わが政府が責任のある答弁と措置を要求した翌日に通知文を送り、速やかに謝罪し、再発の防止を約束した。事態を悪化させて南北関係を取り返しのつかない状況に向かわせることを望まないという北側の意志の表明と評価する」

 と北朝鮮の対応を評価。さらに、

「特に金正恩委員長が我々の国民に本当に申し訳ないという意を伝えてきたことは格別の意味として受け止める。北の最高指導者として直ちに直接謝罪したというのは史上初めての極めて異例なことだ」

 と「異例」を強調して、金党委員長の謝罪を高く評価した。

 文大統領の遺族や国民への謝罪は遅すぎた感がある。

 一方北朝鮮は、韓国側が要求した共同調査にも応じていない。事件の再発防止を目指すなら、軍事当局者間の連絡ルートの復活を含めた対応措置を取るべきであろう。それどころか、北朝鮮は犠牲者の遺体発見活動を行っている韓国側の船舶に対して、「領海侵犯」という非難をしている状況である。これでは、自国民を銃殺した北朝鮮側の対応を文大統領は評価し過ぎだ、と受け止められても仕方がない。

 最左派政党「正義党」の沈相奵(シム・サンジョン)代表は9月28日、党の会議で今回の事件について、

「北朝鮮が犯した非人道的民間人殺人」

 と規定し、真相究明と責任者処罰を求めた。さらに、

「与党勢力の一部にある、われわれ国民の生命より南北関係を優先視するような考えは改めなくてはならない」

 と批判した。

 一般国民の視点からは、韓国政府・与党の南北関係優先の考え方よりは、国民の生命を守ることが重要、という「正義党」の主張の方が、理があるだろう。

 文政権にとって南北関係改善が重要であり、北東アジアの平和のためにも南北関係は改善され、南北対話が行われなければならない。しかし、そのためには韓国民の支持が必要だ。

 韓国民の支持を得るには、韓国政府が国民の生命や財産を守るという原点を最優先にしなければならない。民間人の生命を犠牲にした南北関係の改善というのはあり得ない。北朝鮮が特異な国家であることは事実だが、一般の国民の目線で対北朝鮮アプローチを行うのが重要だということを、今回の事件は教えている。

平井久志
ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

Foresight 2020年10月2日掲載

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