トランプだけではない! 全米に〈税金逃れ〉を蔓延させた「危険な思想小説」

国際 2020年10月1日掲載

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米国のエリートたちが心酔するベストセラー、アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』

 NYタイムズが報じたトランプ大統領の脱税疑惑が話題となっているが、アメリカ人を「納税拒否症」にかからせたと言われるベストセラー小説がある。アイン・ランドという女性作家が1957年に刊行した『肩をすくめるアトラス』という作品だ。

 日本ではあまり知られていない作品だが、アメリカでは半世紀以上にわたって売れ続け、累計発行部数は少なくとも700万部を超えているという。

 早稲田大学教授の岩村充さんは、近著『国家・企業・通貨――グローバリズムの不都合な未来』において、この本こそがアメリカのエリート層に浸透している「新自由主義」の源流であり、また全米に「税金逃れ」の風潮を蔓延させた要因の一つとなっていると分析している。

 実際、トランプ大統領も前回の大統領選中にランド作品のファンだと明かしており、ポンペオ国務長官をはじめ政権内でも彼女の思想の信奉者が多いという。

 以下、岩村さんの著書から、『肩をすくめるアトラス』に関する記述を再構成してお届けしよう。

米国のエリートたちが絶賛

『肩をすくめるアトラス』は、米国のエリート層に絶大な影響を与えており、この本を読んでいない知識人はいないとすら言われる思想小説です。

 1957年に初版が刊行されて以来、現在に至るまで売れ続けて累計発行部数は700万部を超え、米国では聖書に次ぐベストセラーと言われています。1991年に米国議会図書館と米国最大の書籍通販組織が会員5千人に「人生で最も影響を受けた本」を尋ねる調査を実施したところ、聖書に次いで2番目にランクインしました。

 また高名な自由主義経済学者ルートビィヒ・フォン・ミーゼスや、アフリカ系ながら保守派の最高裁判事になったクラレンス・トーマスなどが称賛し、1987年から20年近く米国の連邦準備制度(FRB)の議長を務めたアラン・グリーンスパンも、この小説について「目的と理性を回避する寄生者は滅びるべくして滅びる」などと絶賛の投稿をしています。

 さらに、著者の思想を普及させるべく創設されたアイン・ランド協会が、数十万冊もの本を高校生たちに寄贈しているという事実を考えれば、その影響力は生半可なものではありません。

労働組合が支配するパラレルワールド

 ペーパーバック版で千頁を超えるこの超大作の舞台は、1950年代の米国ですが、作者ランドの描く世界では、企業の多くが国有化されたり労働組合に支配されたりしている「混合経済」体制になっています。いわゆる「パラレルワールド」です。

 そして、そのパラレルワールドの米国では、なお企業家精神を失わない経営者たちが、国家や労働者たちの不当な規制や要求の下で「肩をすくめる」だけで重荷に耐えながら(ここで「肩をすくめる」というのは、肩をすくめ両手を拡げ、あの「もうお手上げ」というポーズをするという意味でしょう)、かつて存在した自由な資本主義の黄金時代への回帰を模索するというドラマが、延々と演じられます。

 ちなみに、アトラスとはギリシア神話に出てくる神の一人で、ゼウスたちとの戦いに敗れ、その罰として天球を担ぐように命じられた巨人です。要するにランドは、企業の経営者や富豪などの一部のエリートたちが、大多数の庶民の暮らしや国家を支える重荷を不当に背負わされており、米国はもっと低税率で自由放任型の資本主義社会に移行すべきだと主張しているのです。

 正直に言ってしまうと、かなり濃厚なイデオロギー的な主張を秘めたこの小説を、私は好きになれません。しかし、アメリカにおける新自由主義の起源を解明しようと思えば、本書は無視することのできない作品です。

リバタリアニズムの浸透が意味すること

 ランドの小説は、「リバタリアン」という現実の政治勢力を作り出す精神的源流になっています。リバタリアンは、個人的自由や経済的自由を重視する政治勢力で、政府による富や所得の再配分を自由への侵害とみなして反対します。

 彼らの政党である「リバタリアン党」の得票率は、2016年の上下院議員選挙では3パーセントを超えています。民主と共和という二大政党が存在する米国の事情を考えれば、これは少数政党としては驚くほど高い数字です。また、彼らは必ずしも得票率にこだわらず(つまり選挙区に独自候補者を立てず)、民主共和両党の候補者のうち彼らの主張に近い方の候補者に投票しているので、その影響力は得票率よりもはるかに大きいと言われています。

 しかも、注意すべきことは、リバタリアンには、必ずしもランドが擁護しようとした「富裕層などの一部のエリート」ではなく、むしろ教育程度の高い中間層が多くいることです。これは、グローバリズムの進展にともない、富裕層たちは国境を越えて税金を逃れるさまざまな手段を手に入れる一方、そこまでの資産やノウハウを持たない中間層に税負担が集中しているという事実を反映していると考えられます。

 つまり『肩をすくめるアトラス』は、いまや多くの税金を逃れている富裕層にも、そして現在多くの税金を負担している中間層にも、支持されている思想書となっているのです。

 もしこの先、富裕層も中間層も税金を負担することを拒否するような世の中になれば、この社会はどうなってしまうのでしょうか。グローバリズムの進展によって、いま国家は大きな曲がり角を迎えています。

デイリー新潮編集部