「菅義偉」は初の法政大出身首相 同級生「生島ヒロシ」が語る“苦学と空手”秘話

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社会人で“再会”

 皿洗いは時給120円、横浜港で肉体労働をすると時給300円。一番高かったのはホテルの配膳で、時給400円になったという。

 その後、生島氏は法政大学を退学して渡米。75(昭和50)年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科を卒業すると、翌76(昭和51)年にTBSにアナウンサーとして入社した。

 たちまち視聴者の人気を得たが、その時、知人から「生島さんに会わせたい人がいる」と声をかけられた。

「その知り合いは福田赳夫元首相(1905~1995)の秘書をしていて、衆議院議員の小此木彦三郎さん(1928~1991)の秘書を僕に紹介するというんです。それが菅首相でした。屋上で一緒に空手の練習をしていたことも分かって、たちまち意気投合です」(生島氏)

 生島氏に当時の菅首相の印象を訊くと、やはり「真面目」や「義理堅い」という言葉が飛びだす。

 そしてインタビューが白熱していくにつれ、次第に「菅首相」が「菅ちゃん」へ変わっていった。

「菅なら賄賂は受け取らない」

 生島氏が振り返る。

「菅ちゃんと交友を持つようになって、結婚式の司会を依頼されることが増えました。小此木さんの後援者といった関係者のお子さんが結婚したりすると、僕に声をかけてくれるわけです」

 舞台裏を覗く機会が多く、“素の菅義偉”を見ることができた。

「様々な結婚式を間近で見ましたが、その時、舞台裏で奔走する菅ちゃんがどれだけ義理堅く、真面目な男なのかを知る機会に恵まれたのです」(同)

 当時、贈収賄事件で政界に逮捕者が出ることが珍しくなかった。「政治不信」という言葉がマスコミを賑わすことが多かった。

 秘書も例外ではなく「賄賂のおこぼれにあずかる」というエピソードが公然と語られていた時代だった。

 だが、当時の“菅秘書”を知る人は生島氏を含めて「あいつはそういうことをするタイプじゃない」という共通認識があったという。

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