命を燃え尽くした「三菱自動車」益子前会長が徹した「やるべきこと」

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 三菱自動車工業前会長の益子修(ますこ・おさむ)氏が8月27日、心不全のため亡くなった。71歳だった。

 20日前に健康上の理由で会長職と取締役を退任したばかり。燃え尽きるまで三菱自存続のために奔走したが、世界で初めて電気自動車(EV)を市販したにもかかわらず、同社は電気自動車で世界を席巻した「テスラ」にはなれなかった。

目的は「時間を稼ぐこと」

 益子氏が代表権のある常務取締役として三菱商事から送り込まれた2004年、三菱自は全くもってひどい状態にあった。

 まず2000年に、大規模なリコール隠しが発覚する。1977年から23年間、17件62万台に上る重要不具合情報を運輸省(現国土交通省)に報告せず、社内で隠蔽していた。

 消費者の信用を失った三菱自は経営危機に陥り、ダイムラー・クライスラー(2000年当時。のちに合併を解消してクライスラーに)の傘下に入る。しかし2002年、大型車のタイヤホール脱落事故をきっかけに、前回を上回る74万台のリコール隠しが発覚し、2004年にはダイムラーに支援を打ち切られた。

 経営再建の主翼を担う大株主に逃げられた三菱自。存続の危機に立った同社を救ったのは、同じ「スリーダイヤ」を社章に戴く三菱グループだった。三菱重工業と三菱商事などが1400億円の増資を引き受け、東京三菱銀行(当時。現三菱UFJ銀行)などが1300億円の債権を株式化した。

 水面下では会社更生法や民事再生法の適用申請も検討されたが、最後は「三菱の名前がついた会社を倒産させるわけにはいかない」というグループの総意で支えることになった。だが、ガラス細工のような再建計画には、蓋然性が全く感じられなかった。

 この問題を取材していた私は、当時、三菱商事の財務担当で、三菱自の副会長になることが決まっていた古川洽次(こうじ)副社長の自宅に押しかけた。

 「2度のリコール隠しで消費者の信頼を失った三菱自動車はコンプライアンスもガバナンスもガタガタで、技術的にもトヨタ(自動車)やホンダ(本田技研工業)、欧州勢と勝負にならない。いくら三菱グループのメンツが大事でも、再建の見込みがない会社に三菱グループから2700億円も出資するのは、三菱商事の株主に対する背任ではないですか」

 夜討ち朝駆けで聞いた話は原則オフレコだが、ずいぶん昔の話なのでご容赦願おう。しばらく天井を睨んでいた古川氏はこう言った。

 「あなたの言う通り、再建は難しい。三菱自動車はいつか倒れるかもしれない。しかし断じて今ではない。今、倒産したら三菱のブランドを信用して取引してくれていた取引先や、顧客、社員に途方もない迷惑をかける。

 しかしたとえば10年後なら、その時点で三菱自動車を信用していた人々の自己責任ということになるかもしれない。今回の出資の最大の目的は、その時間を稼ぐことだ。それが三菱を信用してくれてきた人たちに対して示せる、我々の精一杯の誠意なんだ」

 そんな考え方があるのか、と驚かされた。そして三菱グループは三菱自を10年どころか15年以上も延命させた。「三菱村」としての責任は十分に果たしたと言っていい。

「誰かがやらなければならない」

 そのために身を粉にしたのが益子氏だった。

 益子氏は1972年に三菱商事に入社。三菱自の海外営業で頭角を現し、「自動車のエース」と呼ばれた。自分が赴任していたシンガポールをはじめ、東南アジアで盤石の販売基盤を構築した。今も東南アジアは、三菱自にとってドル箱市場になっている。

 益子氏は2005年に社長に就き、経営危機に陥っていた三菱自の立て直しに奔走した。

 2009年には世界初の量産型EV「アイ・ミーブ」を発売した。2008年にテスラがEVの「ロードスター」を発売したものの、当時の生産台数が年間100〜200台と少なかったため、量産型としては、三菱自が「世界初」の栄冠を勝ち取った。

 だが、それは「乾坤一擲」というより「最後の一花」に近かった。益子氏は、自ら地方自治体などにトップ営業をかけてアイ・ミーブを売り込んだが、日本の自動車業界は、トヨタが「ハイブリッド車から水素自動車へ」のロードマップを描いたため、EVのインフラが整わない。

 弱小メーカーの三菱自が旗を振っても詮無いことだった。「世界初」の称号は手に入れたが、三菱自が復活するに足る利益をアイ・ミーブがもたらすことはなかった。

 「EVの盟主」として復活する野望を断たれた三菱自は、戦線の縮小を余儀なくされる。

 2015年にはラリーカーとして一世を風靡した「ランサーエボリューション(通称ランエボ)」の生産を中止し、SUV(スポーツ多目的車)の草分け「パジェロ」も2019年に海外専用となり、そのパジェロが活躍したパリ・ダカール・ラリーからも、2009年に撤退した。オーストラリア工場も、その前年の2008年に閉鎖している。

 後ろ向きの決断は当然、プロパーの不興を買う。しかし益子氏は、「誰かがやらなければならない」と汚れ役を淡々とこなした。「時間を稼ぐ」ためには、避けては通れない道だった。

株式時価総額で100倍近くの差

 「時間を稼ぐ」ために益子氏が決断したもう1つの施策が、仏ルノー、日産自動車との提携だった。世界販売台数が三菱自の数倍にもなる巨大な2社と手を組むことで、開発やマーケティングにかけられる資金の少なさを補おうとした。

 交渉相手は日産の窮地を救ってカリスマになったカルロス・ゴーン氏であり、半官半民のエリート集団、ルノーの幹部。ルノーの後ろにはフランス政府がいる。

 アライアンスを少しでも自分たちの有利な形にしようとする日産とルノーの狭間で、埋没しないように自分たちの利益を守るのは並大抵の仕事ではなかったはずだ。

 おまけに、三菱自の背後には大株主である三菱重工と三菱商事がいる。日産とルノーの間でバランスを取りつつ、大株主のご機嫌も損ねるわけにはいかない。益子氏の交渉力と人柄でなければできない仕事であり、そのストレスが益子氏の寿命を削った感は否めない。

 三菱自で最悪期を乗り切った後、2014年には会長兼CEO(最高経営責任者)になり、古巣の三菱商事への出戻りも取り沙汰された。その矢先、2016年に発覚した燃費不正問題を機に社長に復帰。2018年に再び会長に就いたが、ゴーン氏の逮捕・国外逃亡などもあり、一線を退くタイミングを逸した。

 「企業戦士」としての使命を全うした人生だったが、新しい価値を生み出すタイプではない。改めて問われれば、「そんなカネも時間もなかったよ」と苦笑するかもしれない。

 が、テスラが「ロードスター」、三菱自が「アイ・ミーブ」を世に送り出した2008~2009年は、両社ともに台所は火の車だった。株主からの資金と銀行からの借り入れで自転車操業を続けていたテスラのイーロン・マスクCEOは、結果を求める投資家や債権者にEVの将来性を粘り強く説明し、我が道を突き進んだ。

 その結果、テスラの株式時価総額は2020年8月、4000億ドル(約36兆円)を超え、7月の時点でトヨタを抜いて自動車メーカーとして世界一になった。

 ともにEV時代の扉を開けたテスラと三菱自だが、三菱自の株式時価総額は、現在3800億円。株式市場の評価ではついに100倍近くの差がついてしまった。

 益子氏が三菱自を存続させるために、三菱グループの長老や日産・ルノーを相手に戦略、戦術の限りを尽くしていた時、マスク氏はひたすら「EVの量産」に打ち込んでいた。益子氏とマスク氏の違いはそのまま、シリコンバレーのベンチャー経営者と日本の大企業経営者の違いでもある。

 自動車メーカーの最大のミッションは「良い車を作ること」だが、16年間、三菱自の経営に心血を注いだ益子氏は、その時間の大半を「車作り以外の仕事」に奪われた。

 「やるべきこと」をやって企業を存続させる経営と、存続を危うくしてでも「やりたいこと」を貫く経営。「やるべきこと」をやった益子氏の功績は大きいが、果たして「やりたいこと」はできたのだろうか。

大西康之
経済ジャーナリスト、1965年生まれ。1988年日本経済新聞に入社し、産業部で企業取材を担当。98年、欧州総局(ロンドン)。日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員を経て2016年に独立。著書に「稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生」(日本経済新聞)、「会社が消えた日~三洋電機10万人のそれから」(日経BP)、「東芝解体 電機メーカーが消える日」 (講談社現代新書)、「東芝 原子力敗戦」(文藝春秋)、「ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正」(新潮文庫) がある。

Foresight 2020年9月4日掲載

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