安倍・プーチン「首脳交渉」挫折で残る「2つの謎」

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 安倍晋三首相が悲願としたロシアとの北方領土問題解決による平和条約締結は、首相の病気退陣により最終的に破綻した。

 首相は辞任表明した8月28日の記者会見で、日露平和条約、北朝鮮による日本人拉致問題、憲法改正が実現しなかったことを挙げ、「痛恨の極み」「断腸の思い」と形容した。

 安倍首相は過去7年間で計11回訪露し、1期目を加えるとウラジーミル・プーチン大統領との首脳会談は計27回に及んだ。北方領土問題打開に積極的に取り組み、従来の対露政策を修正、経済協力を進めながら領土問題を解決する「新しいアプローチ」を打ち出した。国是だった「4島返還」を「2島プラスアルファ」に転換して交渉に臨んだ。米国の対露封じ込めにも同調せず、G7(主要7カ国)の対露制裁に日本だけ参加しないこともあった。

 だが、こうした涙ぐましい努力もロシアには通用しなかった。歯舞、色丹2島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言を基礎にした交渉も、「ゼロ回答」というロシアの強硬姿勢で暗礁に乗り上げた。「領土割譲禁止」条項を含む7月の憲法改正は、首相の融和外交への強烈なしっぺ返しとなった。

 こうして、戦後最も親露的な政権だった安倍首相の融和外交が通用しなかったことで、後継政権が対露外交の比重を低下させることは間違いない。安倍対露外交失敗の背景と今後の日露交渉の行方を探った。

ウクライナ危機で暗転

 ロシア大統領府によれば、プーチン大統領は8月31日、安倍首相に電話し、これまでの共同作業に謝意を述べ、2国間協力発展に果たした首相の貢献を高く評価。両首脳は、善隣関係とアジア・太平洋の安全と安定を強化する努力を続ける重要性を強調した。

 日本側の発表は、両首脳は2人の合意を踏まえ、平和条約交渉を継続することを確認したとしているが、ロシア側発表には「平和条約」のくだりはなかった。大統領は最後に「退任後も活躍を願う」とし、「シンゾー、アリガトウ」と伝えたという。

 ロシア大統領報道官も退陣発表後、

「非常に残念だ。プーチン大統領と安倍首相の間には、仕事を成し遂げるための輝くような関係があった。後任の首相が両国関係をさらに発展させるよう期待している」

 とコメントした。

 確かに、ロシアが異例の融和外交で臨んだ安倍首相の突然の退陣を残念に思うのは間違いない。では、なぜ安倍首相の熱意に応えなかったかという疑問も残る。

 過去7年の安倍・プーチン交渉を振り返ると、2014年のウクライナ危機が重大な転機となり、ロシアの国粋主義外交によって暗転したことが分かる。

 2013年4月の最初のロシア公式訪問は、長文の共同声明を発表するなど成果があり、「いまだに平和条約がないのは異常」との認識で一致。外相、防衛相による「2プラス2」の定期化でも合意した。2014年2月のソチ冬季五輪開会式には、安倍首相が西側首脳として唯一参加し、大統領は同年中の訪日を表明した。

 ところが、その直後のウクライナ危機に伴うクリミア併合や東部の騒乱で、欧米諸国は対露制裁を発動。日本はソフトな制裁にとどめたが、プーチン大統領は、

「日本は対話のプロセスを中断するつもりか」

 と反発し、訪日機運は吹き飛んだ。米露・欧露関係は冷却化し、孤立したロシアは中国一辺倒外交を強め、日本の比重が低下した。クリミア併合に伴う民族愛国主義の高揚は、領土引き渡しを一段と困難にした。

 ようやく実現した2016年末のプーチン訪日は国際的注目を呼んだものの、領土問題は「ゼロ回答」に終わった。安倍首相は2018年に「2島返還」に譲歩して2019年から本格交渉に入ったが、ロシアは2島を引き渡すそぶりも見せなかった。安倍政権の融和外交は結局、ロシアには通用せず、プーチン政権は高飛車な姿勢を貫いた。

ナイーブな官邸官僚

 7年に及んだ安倍・プーチン交渉には、解明されていない謎が少なくない。

 謎の1つは、安倍政権はどのような勝算があって56年宣言まで譲歩し、「2島」に歩み寄ったかということだ。

 両首脳は27回も会談し、必ず行うサシの会談で本音を引き出し合えたはずなのに、ロシア側は2島引き渡しの意思を一切示さなかった。ロシアによる4島領有を合法と認めることが前提条件になり、日米安保が難関になることを、なぜ事前に察知できなかったのかという疑問だ。

 この点で、モスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授は『朝日新聞』(20年8月31日付)で、

「安倍氏はプーチン氏が独断で全て決められる強い指導者との幻想を本気で信じていたか、解決は不可能と分かった上で有権者に領土問題に取り組む姿を見せたかったかのどちらかだろう」

 と指摘した。

 安倍外交に批判的な外務省関係者も、

「外交や過去の経緯を知らない官邸の経済産業省グループが、国際政治のスーパースターであるプーチンと会談を重ねるだけで政権支持率が上がると安易に考えた。ロシアの外交体質に無知だった」

 と批判していた。対露外交で主導権を握った今井尚哉首席秘書官兼補佐官ら官邸官僚が、「善意には善意で応えるはず」という極めてナイーブな対露観で外交を進めたことに問題があった。

 勝算もないのに、安倍首相が、

「私とウラジーミルの手で必ず平和条約を締結する」

「平和条約締結へ確かな手ごたえを得た」

 などと楽観的見通しを連発し、元島民らの期待値を高めたことは批判されよう。

終始高飛車なプーチン

 もう1つの謎は、経済低迷など多くの難題を抱えるロシアが、日本の融和外交を黙殺し、強硬姿勢を貫いたことだ。

 ロシア経済は過去10年、成長率は年平均1%と振るわず、近年は収入減で国民の生活苦が高まった。主力の石油・ガス価格は需要減で低迷する。社会に閉塞感が広がり、2020年6月にプーチン大統領の支持率は59%と就任以来最低水準に落ち込んだ。

 日本側は民間企業を含め投資能力が大きく、北極海のLNG(液化天然ガス)計画に約3000憶円を投資した。安倍首相はロシアとの経済協力を扱うロシア経済分野協力担当大臣まで設置した。日本との関係を強化すれば、日本がG7の窓口になり、国際的孤立を緩和できた。日露関係の強化は、ロシアの対日外交目標である「日米離間」を多少とも実現できるし、中国一辺倒外交を修正できる。

 健全な外交センスがあれば、安倍政権の融和外交を利用し、対話に前向きに応じるべきだが、頭から強硬姿勢で臨んだことは、正常な外交感覚とは思えない。

 この点で、テンプル大学日本校の日露関係専門家、ジェームズ・ブラウン准教授は『モスクワ・タイムズ』(電子版、8月31日付)に寄稿し、

「結局、プーチンは安倍との関係で終始高飛車に出た。プーチンは日本側の譲歩を受け入れたが、何も返礼しなかった。これはプーチン外交によくみられることで、短期的な勝利が、結局は長期的な敗北につながることになる。ロシアは安倍政権との間で、世界3位の経済大国との関係を活性化するチャンスがあったのに、日本を疎外しようとした。これは、プーチンと仲良くしようとしても無駄だという明確なメッセージを世界のすべての指導者に発信することになった」

 と書いている。

日露関係後退は必至

 安倍政権の涙ぐましい対露融和外交が通用しなかったことは、今後の日露関係に打撃となる。後継政権は表向き安倍路線の継承を表明しても、効果がないことが分かった以上、安倍首相のように何度も訪露や首脳会談を繰り返すことはなさそうだ。新政権はむしろ、独自色を出すため、日韓関係改善や日中関係安定化に力を入れるかもしれない。

 ロシアでも、日露関係の後退を予想する見方が多い。外交評論家のフョードル・ルキヤノフ氏は、『ベドモスチ』紙(8月31日付)で、

「両首脳間には明らかに良好な個人的関係があったが、ほぼ解決不可能な領土問題がテーマだけに、それだけでは不十分だった。今後日露関係に首脳の個人的親交という要素はなくなる。やがて平和条約問題は両国の議題から消えていくだろう。新首相は安倍首相のように使命感を持たない。(領土割譲禁止の)改憲が合意達成を法的に不可能にした」

 と指摘した。

 ストレリツォフ国際関係大学教授はロシアの情報サイトで、

「次の首相はロシアに対して厳しい外交で臨み、領土問題で譲歩しない古い立場に戻るのではないか」

 と予測した。コンスタンチン・サルキソフ山梨学院大学名誉教授も、

「日本が米国一辺倒でなかった日露関係の輝かしいページは、安倍首相退陣で終止符が打たれた」

 と語った。

 一方、保守派の日本専門家、アナトリー・コシキン東洋大学教授は、

「プーチンを口説いても北方領土問題の解決が不可能だと日本の政治家や国民が悟った以上、首脳会談は減るだろうが、両国関係の深刻な冷え込みは考えられない。国際政治や経済、戦略面で、ロシアが日本を必要とするように、日本もロシアを必要としている」

 と述べ、日本側は日露関係が冷却すると、ロシアはますます中国寄りになることを懸念していると指摘した。

 今後の対露政策の方向性については、新政権で影響力を強めるとみられる河野太郎防衛相が最近、米英など5カ国の機密情報共有の枠組み「ファイブ・アイズ」との連携拡大に意欲を示したことが注目される。

 ファイブ・アイズは、米国、英国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドが参加し、いずれも反露諸国だ。とりわけ、英国とカナダはロシアへの制裁強化による孤立化を進めている。河野氏は中国の軍事力拡大に対処する連携を意図しているようだが、日本が5カ国との連携を強化すれば、対露政策でも同調を求められよう。

 その場合、日本の対露政策は次第にタカ派色となり、ロシアは対日強硬外交で臨みかねない。領土交渉の進展は、少なくともプーチン時代が続く限り不可能になろう。安倍対露外交の挫折は、日露関係の転換点となる可能性がある。

名越健郎
1953年岡山県生れ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長を歴任。2011年、同社退社。現在、拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授。著書に『クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』(中公新書)、『独裁者たちへ!!―ひと口レジスタンス459』(講談社)、『ジョークで読む国際政治』(新潮新書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『北方領土はなぜ還ってこないのか』(海竜社)など。

Foresight 2020年9月4日掲載

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