「松岡修造」を一流にした”麻雀漬け”の日々 現在はジュニアの育成に注力(小林信也)

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 松岡修造を語る時、1995年全英オープン(ウィンブルドン)ベスト8進出が必ず挙げられる。だが、

「選手として最高の瞬間は、ウィンブルドンのベスト8ではないんです。その翌年の全英オープン2回戦です。優勝経験のあるシュティヒ(ドイツ)とセンターコートで対戦した試合です」

 52歳になった松岡が夢見るような眼差しで言った。

「ウィンブルドンのセンターコートがずっと僕の夢でした。全英に出ると毎朝センターコートに行って、いつかここに立てますようにとお願いしていました」

 センターコートは大会の約2週間だけ使われる。

「僕の人生を変えてくれたのはあの試合です。センターコートに立った瞬間、感極まって涙があふれそうでした。少年時代からボルグ、マッケンロー、コナーズらの激闘を見てきた。同じ舞台に立っている。芝生の美しさも全然違う。すべてが感激でした。

 最初のサービスは僕からでしたが、手が震えて打てなかった。ベースラインの外でデングリ返しをして、それでようやく……」

 1対3で敗れてすぐスタンドにいた旧知の日本人カメラマンに向かって叫んだ。

「記念写真! 記念写真を撮ってください!」

 そう叫ぶとコート上で直立し、ポーズをとった。

「ここに立つのは最初で最後だと思いましたから」

 その試合が人生を変えたというのはなぜか?

「僕のセカンド・ドリームが生まれたからです。センターコートで優勝を争う日本選手を育てたい!」

日本選手低迷の理由

 松岡修造は売れっ子のスポーツ・キャスターであり“熱血応援団長”だが、日常の多くの時間をジュニアの指導者として過ごしている。自ら始めた「修造チャレンジ」はいま日本テニス協会の男子ジュニア強化プロジェクトとなり、松岡は強化本部副本部長を務めている。松岡の情熱と行動が錦織圭の活躍を生んだことは広く知られている。

「セカンド・ドリームの実現が早すぎました。20年はかかると思っていた。それに、圭によって逆に本気で世界一を目指すと口にする日本のジュニアが少なくなってしまった」

 松岡が表情を引き締める。

「天才・錦織でさえ4位以上になれずにいる。パワーの差があって日本人には無理なんだ、そんな現実を感じさせてしまっている」

 本当は違う、と松岡強化本部副本部長は力説する。

「15歳のころは日本人が強い。18歳くらいから急に体力が充実する海外の選手に勝てなくなる。日本人の成長が遅いからです。一時的に差が付いても、日本人は22、23歳になれば成長する。勝負はそれからです」

 差が付き始めた時点で、自分はダメだ、世界には敵わないとあきらめる選手が多い。松岡にも自分自身がそうした挫折を経て、世界を追いかけ、のし上がった経験がある。

「僕の務めは、それを12歳のころから選手たちに伝えておくこと。18歳になってから言っても遅いのです」

 真剣な眼差し。10代で才能に見切りをつけがちな日本の風潮に鋭い直球で斬り込んでいる。その迫力に、松岡修造の存在意義を改めて感じた。

「僕は、選手としての才能はそれほどなかった。でも、応援する才能はある」

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