「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯(下)2つの受勲と悲劇

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 元陸軍少尉、谷本喜久男氏(1922~2001)はベトナムでの長年の野戦暮らしでマラリアなどに罹患し、その発症にも苦しんだという。

 しかし、フランスの撤退を決定づけた1954年の「ディエンビエンフーの戦い」に勝利した後、帰国の道が開かれることになった。

 この時期、日本、中国、ベトナムの赤十字社が協議、連携し、同年10月末には70人余の残留日本兵らがトラック、鉄道など陸路で約1カ月かけて中国・天津に移動。11月末には第9次引き揚げ船「興安丸」に乗って舞鶴港から本土に上陸し、帰郷を果たしている。

11年ぶりに帰郷した谷本氏

 上陸に先駆けて喜びの帰郷を報じた鳥取の地元紙『日本海新聞』は1954年11月25日付紙面で、

「ヴェトナムから縣人一名 十一年ぶり故國へ 河原町出身の谷本氏」

 と報じている。

 ただし、「縣世話課」の調査として、1950年ごろに中部仏印で漁業などを営んでいる模様だと伝えられていたことを紹介しており、ベトナム独立戦への関与には一切触れられていない。

 回顧録で帰国当時の心境を「南方ボケ」「軍隊ボケ」と記している谷本氏は、

「身体もあちこち痛んでいるようだし、しばらく様子を見ながら……」

 という実父の言葉にしたがい、帰国直後に上京してかつての上官を訪問した。

 これと同時期の同年12月6日、衆議院の「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」に参考人として出席し、元横浜正金銀行ハノイ支店行員とともに、ベトナムから引き揚げた邦人全般の状況を説明している。

 軍人としての残留に関しては、

「終戦と同時にもう命令とかあるいは強制的にやらせるということは一切ありませんでした」

「当時現地側としては、たとえば残つた日本人を部隊として越南側に使つてフランスと抗戦させようという思想の幹部もおりました」

 と現地の実情に客観的には触れているものの、自身が「現地側」の懇望を受けて軍幹部育成や山岳遊撃戦で果たした役割については巧妙に避けて証言している。

元校長先生と産婆さんのおしどり夫婦

 私生活ではその後、軍隊入営まで勤務していた日光小学校(旧尋常高等小学校)から復職を打診され、これを受けて鳥取県教育界に復帰。また親類の紹介もあって、1955年、郷里の近隣医院に勤務する2歳年下の看護婦(助産婦)と結婚した。

「戦後社会の変化になじもうと、夫婦で地元に一軒しかない映画館に足しげく通ったそうです」

 と谷本氏の次女の牧田喜子さんは言う。

 谷本氏もそのことを、1995年の戦後50年の節目に編まれた中野学校二俣分校同期会の会報誌『俣一会々報』に記しており、さらに、

「囲碁(一級位)に取り組んだのも、社会復帰を早める上で役立った」

 としている。

 谷本氏は、教頭、校長を経て1980年に定年。退職時の所感として、

「教え子に一人の死亡者もなかったことは何といっても一番の幸せ」

「臨海学校で溺れかかった児童数名を救助することが出来(二回あった)死亡者が出なかった。これも忘れられないが、大きな教訓でもあった」

 と記している。

 以後年金生活に入り、教士七段という剣道の腕前を活かして、地域の道場などで小中学生らに剣道を指導。地元の「八頭郡剣道連盟」の理事長にも就任し、1991年には『八頭郡剣道考』という地元の剣道界の戦前から戦後に至る変遷を記録した私家版冊子も編纂した。

 住居があった河原町近在では、谷本氏の青少年への剣道指導に加え、夫人の清子さんが助産婦として長く活動を続けたこともあって、

「青少年育成に熱心だった元校長先生と、産婆さんのおしどり夫婦」

 として住民の多くが記憶している。

 だが、谷本氏が小野田寛郎氏同様、戦後も任地にとどまってベトナム独立支援の秘密戦に従事したことは、家族ら近親者を除き、ほとんど知られていない。

 念のため鳥取県立公文書館に関連記録がないか確かめてみたが、ちょうど県史編纂が終わった直後だという担当職員は、

「ベトナムの独立戦に関与した県民ですか?そんな話は聞いたことがありませんし、当然県史にも記載はありません」

 と目を丸くした。

ベトナム政府から授与された勲章

 谷本氏は1996年、クァンガイ陸軍中学創立50周年の節目にベトナムを再訪している。

 この経緯については私家版『四十年振りに訪れたベトナム行-報告記』に詳しい。

 それによると1995年にまとめた『回顧録 ベトナム残留記』がきっかけとなってクァンガイ陸軍中学の同僚邦人教官やその遺児らと連絡がつき、同年11月、ベトナム・ハノイのベトナム人卒業生から突然、

「ベトナム軍に参加し、功績のあった日本人の消息を現在も調べています」

 という手紙が届いた。

 これを受けて、ベトナムを再訪した谷本氏は、かつての邦人同僚の元陸軍少尉、中原光信氏(第2区隊教官、ベトナム名=グエン・ミン・ゴック)や、この時すでに他界していた元中尉、猪狩和正氏(第3区隊教官、ファン・ライ)の遺児で写真家の正男氏、またベトナム人の同校卒業生らと旧交を温めた。

 帰国後の1996年秋、ベトナム政府は谷本氏に、「戦功章功一級」、「戦勝功労章功二級」の授与を決定し、翌1997年4月7日、同国駐日大使より授与された。

 ベトナム側が作成した「ヴェトナム革命に参加したグエン・ド

ン・フン(谷本喜久男)氏の功績と略歴」(和訳版)によると、次のようにまとめられている。

「グエン・ドン・フン氏は日本名谷本喜久男。(略)旧日本軍の将校である。(略)早くからベトミンと関係を持ち、軍事訓練や武器装備などに協力した(略)ドン・フン氏はファンティエット、ファンラン、ニャチャン、ビンディンなどでヴェトナム人民軍とともに戦った。とりわけ、トイホアとクイニョンの防衛に参加し、南から北上、またタイグエンから平野地や中部南部のズエンハイへと侵入するフランス軍を阻止した」

 ここからはクァンガイ陸軍中学での教官就任前からベトミンとともに戦っていたことが読み取れ、敢えて手記には記述を避けていた経歴があることを示している。

 略歴はこう続く。

「ヴェトナム人幹部とともに軍幹部を養成するクアンガイ陸軍中学を開校した。1946年11月末、学校は予定より早く終了し、機を失せず400名の幹部を各戦線に配置してフランス植民地主義の侵略に対処した(中略)。クアンガイ陸軍中学の学生たちは戦いのなかで成長し、多くの人は人民軍の将官、高級幹部や政府高官となった(中略)。1950年はじめ、氏は北部に転属し、174中団参謀部(中略)に勤務した。この中団は、当時フランス軍のなかでもっとも精鋭な外人部隊も恐れをなした中団である。中団が316大団に編成されたのちも、ドン・フン氏は国境作戦、18号道、ホアビン、上部ラオス、ディエンビエン作戦などに参加し、参謀幹部として訓練や作戦に参画した」

 先述の通り、回顧録では明瞭な記述を巧妙に避けているものの、ベトナム側は谷本氏が参謀幹部としてディエンビエンフーの戦いに関与したことを認めている。

 この2つの勲章と勲記は、谷本氏の次女、牧田喜子さん宅の床の間に大切に飾られている。

孫娘の運動会参観を翌日に控え……

 喜子さんによると、谷本氏が亡くなったのは、2001年5月19日のことだった。

 孫娘の運動会参観を翌日に控え、喜子さん宅に前泊しようと、清子夫人とマイカーで喜子さん宅へ向かっている途中、トラックと正面衝突。鳥取市内の病院に搬送されたが、全身を強く打って間もなく死亡した。享年79。

 鳥取の地元紙『日本海新聞』は翌日の紙面で「正面衝突2人死傷 青谷の国道 乗用車とトラック」と報じており、現場写真からは谷本氏がハンドルを握っていた青いファミリアの前部が大破している様子がうかがえる。

 全治1カ月以上という重傷を負った清子夫人は事故の瞬間のことを尋ねられてもよく覚えていなかったといい、2012年に他界した。

 昼食後の事故だったことでもあり、喜子さんは、「夫婦で居眠りでもしたのかしら」と推測している。

 喜子さんによると、

「とても元スパイ・ゲリラ戦の指揮官、あるいは剣道高段者とは思えないほど、日常は物静かで動作も機敏とはいえなかった」

 というから、往年の秘密戦士も年齢には勝てなかったということだろうか。

 谷本氏死去の後、地元に暮らす親類が、ベトナム人女性と結婚したことが多少因縁めいている。

 ともあれ、長い対仏、対米戦、統一戦に耐え抜いたベトナム人民軍の幹部を育成し、戦闘も指揮した秘密戦士の葬儀には、剣道や小学校などの、地元の教え子ら約200人が参列したが、急死のため、中野学校の同期らがその死を知るには多少の時間を要したようだ。

 同年12月の中野学校二俣分校同期会の会報誌『俣一会々報』第46号の物故者氏名欄において、ようやく谷本氏の名が小さく記されている。

日本とベトナムの絆の根底にある物語

 谷本氏の行動を、現代日本の価値観で考えるのは無意味かも知れない。

 多くの残留日本兵が戦後、現地で独立戦に加わった動機も一色ではないだろう。

「アジア解放のため」

「捕虜の不名誉がいやだった」

 といった理由とは違い、

「現地に家族ができた」

「日本に戻っても生活の見通しが立たない」

 など実利的判断による残留も多々あったとされている。

 しかし、先の大戦について「日本がアジアを侵略した」とする視点がある一方で、「アジア人のアジア」を掲げ、現地工作員とともに戦った以上、国家や軍隊が滅んだ後も、その言を違えるまいとした1人の人物が存在したこともまた、事実として記憶しておかなければなるまい。

 終戦から75年を迎える今年6月25日、新型コロナウイルス感染症を巡る緊急事態宣言が解除された日本の成田空港では、出入国緩和の第1弾としてベトナム航空のチャーター機に日本人ビジネス関係者ら150人が搭乗し、ベトナム・バンドン空港へと出発した。

 日本社会では多方面がベトナム人労働者、技能実習生らに支えられている。厚生労働省の2019年10月末における国内の外国人雇用届出状況によると、ベトナム人労働者数は40万1326人で全体の24.2%。中国(41万8327人、25.2%)に次ぐ存在で、増加率は前年同期比26.7%増と、中国(7.5%増)を引き離して首位だ。

 ベトナムにとって日本は1992年以降、最大の援助国であり、2017年には対ベトナム投資額でも日本は世界首位となった。

 ベトナム人の親日感情は台湾に比肩できるほどで、かつチャイナリスクを回避する意味でも、日本や台湾ではビジネス上における注目度が高い。

 しかし、「自然の同盟関係」とされるほど緊密な日本とベトナムの絆の根底にある物語を知る人々も絶えようとしている。

「生涯忘れることのできない9年間」

 最後に、1997年4月7日に駐日ベトナム大使から2つの勲章を授与された谷本氏が述べた謝辞を抜粋しておく。「中野は語らず」との言葉があるほどに、秘密戦士は最後まで口が堅かったと見え、この晩年の叙勲についても周囲にはほとんど知られていない。

「ベトナム社会主義共和国、特命全権大使グエン・クォク・ジュン閣下。及び本日、御列席の各団体の代表の皆様にご挨拶申しあげます。

(中略)振り返れば、1946年、ベトナム人民が祖国の独立を目指して、対仏抗戦に入りました時、私は新ベトナム人(ベトナム・モイ)として、この抗戦に参加し、9年間にわたり、ベトナムの戦友と苦楽を共にし、54年に帰国しました。

 私にとり、青春時代のこの9年間の日々は、生涯忘れることの出来ない、貴重な思い出となっています。昨年6月、クワンガイ陸軍学校の創立50周年記念に参加し、50年振りに、昔の幹部や学生に会い、大変感激致しました。今ベトナムはドイモイ政策にもとづき、新しい経済・社会の発展を遂げようとしております。ベトナムの近代化を目指す事業の成功を、心から祈るものであります」 

     

吉村剛史
日本大学法学部卒後、1990年、産経新聞社に入社。阪神支局を初任地に、大阪、東京両本社社会部で事件、行政、皇室などを担当。夕刊フジ関西総局担当時の2006年~2007年、台湾大学に社費留学。2011年、東京本社外信部を経て同年6月から、2014年5月まで台北支局長。帰任後、日本大学大学院総合社会情報研究科博士課程前期を修了。修士(国際情報)。岡山支局長、広島総局長などの担当を経て2019年末に退職。以後フリーに。
主に在日外国人社会や中国、台湾問題などをテーマに取材。共著に『命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件』(産経新聞ニュースサービス、1997)『教育再興』(産経新聞出版、1999)、『ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層』(角川文庫、2002)、学術論文に『新聞報道から読み解く馬英九政権の対日、両岸政策-日台民間漁協取り決めを中心に』(2016)など。
日本記者クラブ個人会員。YouTube番組『デイブ&チバレイの新・日本記』『巨漢記者デイブのアジア風雲録』(Hyper J Channel・文化人放送局、2019~)でMCを担当。

Foresight 2020年8月15日掲載