「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯(上)中野学校からサイゴンへ

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 唐突だが、「ベトナム」(越南)と聞いて何を連想するだろうか。一定の年齢層ならば、「戦争」や「枯葉剤」などを思い浮かべるかもしれない。

 若者なら「フォー」や「生春巻き」「アオザイ」など親しみのある食や民族衣装のイメージが先行するだろう。

 だが、先ごろ最新作が公開されたシルヴェスター・スタローン主演のハリウッド映画『ランボー』シリーズの主人公が、心に傷を負ったベトナム帰還兵という設定であることを思い出してほしい。世界の超大国・米国において、ベトナムでの死闘は遠い過去の物語ではない。

 ベトナムは、日本の敗戦後に旧宗主国フランスを倒し、米国をも退け、独立と統一を成し遂げた世界最強の社会主義共和国である一方で、人々の親日感情は台湾に比肩し得るほど強く、現在の日越関係は「自然の同盟関係」と呼ばれるほどに緊密だ。

 この太い絆の根底に、「アジアの解放」を掲げて戦後もベトナムに残留し、独立戦争に身を投じた多くの残留日本兵の存在があったことを知る人は、戦後75年を迎え、次第に少なくなっている。

 筆者は縁あって鳥取県の民家に眠っていた1人の元日本軍情報将校の手記や私信などを大量に入手した。

 そこには、ベトナム残留日本兵がベトナム人民軍中枢を育成しただけでなく、第1次インドシナ戦争(1946~54年)でフランスのベトナム撤退を決定的にした「ディエンビエンフーの戦い」にまで関与したという、驚愕の経歴が記されていた。

 その男の名は元陸軍少尉・谷本喜久男。1922(大正11)年、鳥取県出身。1941(昭和16)年に県師範学校を卒業し、生涯を教職と青少年育成に捧げて2001(平成13)年、79歳で他界した。

 だが戦時中は、工作員としてフランス領インドシナ(仏印)で駐留フランス軍の武装解除と、阮朝バオ・ダイ帝を擁したベトナム独立工作(明号作戦)に関与した。

 敗戦後は「ベトミン(ベトナム独立同盟)」に身を投じ、「グエン・ドン・フン」と名を変え、ベトミン軍幹部に近代戦術を指導。1954年に帰国するまでの9年間、ベトナム再占領を企てるフランス軍相手に熾烈な山岳ゲリラ戦を展開した人物だ。

 この谷本氏と筆者を結び付けたのは、やはり戦後29年間、ゲリラ戦を戦い抜いたことで知られるあの人物だった。

小野田寛郎氏の「遺言」

 冷めたコーヒーをスッと飲み干し、はにかんだような笑顔を浮かべて、小柄な老人は話題をしめくくろうとしていた。

「まあ、ボクはたまたま他の人より任務に就いた期間が長くなったので注目されたけど、ボクなんかよりも、もっと大きな働きをした人はたくさんいるんだ。すでに鬼籍に入ってしまったけれど、同期の谷本君などがそうだったよ」

 梅雨もようやく開けた2008年7月、東京都中央区佃のレストラン。当時所属していた新聞社の、原稿の「夏枯れ」対策として、元陸軍少尉・小野田寛郎氏(1922~2014)に終戦関連のインタビューをした。

 小野田氏と言えば、終戦後も日本の反攻を信じてフィリピン・ルバング島で遊撃戦を展開し、ひとりになるまで「残置諜者」としての任務を継続した筋金入りの秘密戦士だ。

 1974年に帰還。戦後社会の価値観の変化にとまどい、ブラジルに渡航して牧場経営を成功させた後、晩年は自身のサバイバル術を通じて日本で青少年育成に努め、藍綬褒章も受章した。

「人間はひとりでは生きられない」と、道徳教育の重要性を訴えた小野田氏は、師範学校卒で教育者だった古い仲間の話題を最後に、インタビューを終えたかったのかも知れない。

「もし機会があればキミ、鳥取のご遺族を訪ねて彼のことも取材してほしいんだけどなあ……」

 小野田氏の言う「谷本君」が、帝国陸軍の諜報、遊撃戦術の教育機関であった中野学校二俣分校(現静岡県浜松市)の1期生の仲間で、終戦後も仏印にとどまった残留日本兵の1人であることは、このときすでに認識できていた。

 氏から贈られた資料や、神田の古書店で大枚をはたいて購入した中野学校の校史『陸軍中野学校』(中野校友会編)などで調べあげていたからだ。

 しかし、新聞社の日々の仕事に忙殺され、小野田氏存命中は鳥取に出かける機会もないままに、その名は記憶の片隅に追いやられていた。

 思い出したのは今年に入ってからだ。

 昨年末、29年間勤めた新聞社を早期退職したものの、新型コロナウイルス感染症の拡大の影響で国内外での自由な取材活動がままならず、小野田氏から預かった中野学校関係の資料などを整理していた際に、インタビューの光景が鮮明によみがえった。

 偶然にもこの時期、鳥取に知人ができたことで、緊急事態宣言の解除後には、その知人に会うため鳥取市を訪問することになった。

 わずか3日間の現地滞在にもかかわらず、谷本氏のことを「小野田氏の遺言」として訪問先で話題にしたところ、知人の伝手や、地元住民らの協力もあって、奇跡的に鳥取県倉吉市北郊・北栄町の嫁ぎ先で暮らす谷本氏の唯一の肉親、次女の牧田喜子さん(62)にたどりつくことができたのだ。

次女が提供してくれた貴重な資料

「父も、そしてその後は母も、他界してから随分年数が経ちますし、そろそろ実家に置かれたままの遺品なども整理せねばと、家族と話していたところでした」

 不意の訪問にもかかわらず、元教員の喜子さんは、夫の元教員、浩文さん(59)、義母の豊子さん(89)らと筆者を出迎え、亡父の手記や私信、記念品など眠っていた資料群を探し出してくださった。

 喜子さんは、筆者が連絡する直前まで東京に出向いていたといい、1日前後していれば会えなかっただろう。

「どうぞお貸ししますから、持ち帰ってゆっくりご検証なさってください」

示された資料は少なくなく、さらには後日、鳥取市郊外の実家にまで足を運んで探した、という写真なども郵送されてきた。

 戦後、ルバング島から帰還を果たした小野田氏を囲んだ中野学校同窓会での記念写真と思しきものや、晩年に約40年ぶりにベトナムを再訪した際のスナップ写真などもある。

 また自筆の『大東亜戦争の追憶 安隊中部越南工作の記録』、私家版『回顧録 ベトナム残留記』、『四十年振りに訪れたベトナム行-報告記』など複数の手記には、大戦中に自身が関与した仏印での工作や、敗戦後の混乱の中でベトミンと関係を深めた経緯、軍事教練やゲリラ戦関与の実態などが記録されており、これらは特に貴重だ。

 残留日本兵の現地独立戦争への関与は、邦画『ムルデカ17805』(2001年公開)にも描かれたように、インドネシアを中心とするオランダ領東インド(蘭印)の事例がよく知られている。

 だが仏印の場合は、インドネシア独立のケースほどには戦史研究者らの耳目をひきつけなかったようだ。民族独立支援とはいえ、実態が共産政権及びその軍の育成であったため、米国と安全保障条約を締結した戦後日本では扱いにくいテーマだったのかもしれない。加えてベトナムにとっても体面上秘したい歴史であったと見られる。

 事実、先行研究は限定的で、主要人物である谷本氏への聞き取り調査などに関しても、ある資料では2000年に聞き取り調査に応じたと記されているものの、別の資料では90年代後半に死去したと記されるなど、不正確な記述も目立つ。

 インターネット上を渉猟する限り、谷本氏はその没年すら定かでないとされてきた。

日本軍が企図した「明号作戦」

 さて、回顧録などをもとに、その経歴を再確認しておくと、鳥取県八頭郡河原町(現鳥取市河原町)出身の谷本氏は1941年に県師範学校本科第一部を卒業。同年、県西部(現伯耆町)にあった日光尋常高等小学校において訓導(教諭)となった。

 43年1月に現役兵(第一乙)として地元の「中部47部隊」に入営。翌44年、豊橋第一陸軍予備士官学校を経て、中野学校二俣分校でスパイ・ゲリラ戦術の約3カ月間の速成教育を受け、同年内には仏印駐屯軍司令部付となってサイゴン(現ホーチミン)に赴任。45年1月に少尉に進級し、そこで予備役編入。以後は特殊工作任務に就いた。

 19世紀末はアジアが欧米列強による植民地化の餌食となった時代だ。英国が清国の香港や威海衛、ドイツが同様に山東半島・膠州湾、ロシアが沿海州、また米国がフィリピンを自国の統治権下に置いたように、仏印もまたフランスが19世紀末までにベトナム、ラオス、カンボジアを保護国化した連邦だった。

 フランスは41年の日本の対米英戦開戦前後は親独のヴィシー政権下にあり、日独伊三国同盟の流れから日本軍の仏印進駐を受け入れ、現地フランス軍と日本軍は協力関係にあった。

 しかし、戦局の悪化にともない、谷本氏がサイゴン入りした後、米軍はフィリピンを奪回し、日本軍の南方総軍司令部がマニラからサイゴンに撤退。また欧州でのドイツの劣勢を受けてヴィシー政権もすでに崩壊しており、仏印ではそれまで協力関係にあった現地フランス軍が、露骨に敵対的姿勢をとりはじめていた。

 このため日本軍は、仏印駐留フランス軍の武装解除とともに阮朝バオ・ダイ帝を擁立して独立を宣言させることを企図して、45年3月、「明号作戦」を展開した。

特殊工作に従事した谷本氏

 作戦立案の中枢には中野学校2期、3期という古参も含まれていた。

 現地日本軍はこの時期、駐留フランス軍に比べ兵力劣勢だったとされるが、谷本氏はこの作戦で、中野学校出身者らで組織された「安機関」の工作員となって特殊工作に従事した。

 部下数名と通訳、ベトナム人工作員を連れて一班の指揮官となり、商社員になりすましてフランス軍兵営のあるバメツオの街に潜入。やがて来る主力部隊の誘導などを念頭に、「隠密行動をつづけていました」と記している。

 谷本班は3月9日払暁、好機到来とみて味方の主力到着を待たず、わずかトラック2台分の兵員のみで現地フランス軍の大佐官邸や将校宿舎を急襲しており、その時のドラマチックな様子を次のように記録している。

「町は静寂そのもの、正に寝入ばなであった。(仏軍)フォーロ大佐官邸の歩哨も何故か?居なかった。手筈どおり、宿舎を取りかこませると、谷本少尉は平野通訳を従え、拳銃片手に官邸の階段をかけ上がった。扉をノックすると、先ず寝巻(パジャマ)姿の夫人が出、次で之もパジャマ姿の大佐が現れた。官服に着替えさせ、隣の応接室で【日本軍側の】中隊長を交えて説得すること一時間余、不承不承ながら、やっと武装解除命令を出すことに同意した。【※中略】大成功の一語に尽きる」(【】内は筆者註)

 この作戦で日本軍は目論見通り、わずか数日で仏印各地の主要フランス軍部隊の武装解除に成功し、フエ王城内に軟禁状態となっていた阮朝バオ・ダイ帝も救出。同帝を擁して3月11日にベトナム独立を宣言させた。

 連邦を形成していたカンボジア、ラオスもこれに続いて独立を宣言したが、この際の「ベトナム帝国」は日本の敗戦で半年後に瓦解し、谷本氏らは中国(国民政府=蒋介石)軍からの武装解除を受けることになった。(つづく)

吉村剛史
日本大学法学部卒後、1990年、産経新聞社に入社。阪神支局を初任地に、大阪、東京両本社社会部で事件、行政、皇室などを担当。夕刊フジ関西総局担当時の2006年~2007年、台湾大学に社費留学。2011年、東京本社外信部を経て同年6月から、2014年5月まで台北支局長。帰任後、日本大学大学院総合社会情報研究科博士課程前期を修了。修士(国際情報)。岡山支局長、広島総局長などの担当を経て2019年末に退職。以後フリーに。
主に在日外国人社会や中国、台湾問題などをテーマに取材。共著に『命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件』(産経新聞ニュースサービス、1997)『教育再興』(産経新聞出版、1999)、『ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層』(角川文庫、2002)、学術論文に『新聞報道から読み解く馬英九政権の対日、両岸政策-日台民間漁協取り決めを中心に』(2016)など。
日本記者クラブ個人会員。YouTube番組『デイブ&チバレイの新・日本記』『巨漢記者デイブのアジア風雲録』(Hyper J Channel・文化人放送局、2019~)でMCを担当。

Foresight 2020年8月15日掲載

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