「国際カルテル」摘発の脅威(下)ある日本人「逃亡者」の過酷体験

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「もう本当にいてもたってもいられない、まったく眠れない状態。事件があってからは夜もあまり眠れない。朝方は夢を見て起きちゃうというのはずっとあって。連れて行かれる夢ですよね」

 ある事件で米司法省に起訴され、日本国内にとどまっている日本人ビジネスマンの証言だ。

 前回の『(上)「巨額罰金」「刑務所送り」の日本企業と日本人』(7月16日)では、「自動車部品カルテル事件」で多数の日本企業が米司法省に巨額の罰金を科され、30人以上の日本人社員が米刑務所に投獄された経緯を紹介した。

 それだけにとどまらない。さらに30人が、日本国内にとどまっているとみられるのである。そうした人たちは「逃亡者」として扱われ、事実上、死ぬまで当局の追及の手から逃れることはできない。

引き渡しの恐怖

 拙著『国際カルテル 狙われる日本企業』(同時代社)でも説明したが、逃亡者となった場合、「インターポール」の通称で知られる「国際刑事警察機構」(ICPO)の「赤手配書」リストに掲載される。被手配者の身柄の拘束・引き渡しを他の加盟国に要請するものだ。

 米司法省に起訴された日本人の場合、日本から一歩でも外に出れば、ICPO加盟の第三国で逮捕され、米国に引き渡される可能性が大きい。

 日本国内に立てこもっていれば安全かというと、そうでもない。「日米犯罪人引き渡し条約」に基づき、米国が日本に引き渡しを要請し、日本側がそれを受け入れれば、身柄は米国に移送される。

 いったん引き渡されれば、カルテルなど「重罪」に関与した被告人の場合、刑務所送りになる公算が大きい。

 逆に、米国で起訴され日本にとどまっていても、引き渡し手続きを経ない限り、「米連邦捜査局」(FBI)の捜査官がやって来て連行される心配はない。

 ただしその場合、米国が日本に引き渡しを要請してくる可能性は、起訴が取り下げられない限り、いつまでもゼロにはならない。

 逃亡者は、常に引き渡しの恐怖に怯えながら生きていかなければならない。ごく親しい身内にしか真実を打ち明けられない。

 これまで逃亡者とされた人たちがどのような生活を送り、どのような思いでいるか公になってこなかったのは、そうした事情があるからだ。

八方ふさがり

 ある関係者に紹介してもらった冒頭のビジネスマンは、自らの体験を詳細に語ってくれた。一市民とその家族にとっては、過酷すぎる試練だった。

 仮に秋山雅博さんとする。その一部をお伝えしたい。

 秋山さんはもともと、外資系企業の日本法人に勤務していた。「それなりに成功していた」人生を送っていたが、ある国際的な事件絡みで米司法省など当局が捜査に着手したことをきっかけに、退職を余儀なくされた。

 暗転の始まりだった。

 秋山さんは日本にはいたくないという思いが募り、あるアジアの国に家族連れで移住した。

 そこでの生活はしかし、長くは続かなかった。

 米司法省が秋山さんや元同僚を起訴する可能性があるという知らせを受け、急遽、日本に帰国せざるを得なくなったのである。

 その国にとどまっていれば、国際指名手配され、逮捕される恐れがあると判断したからだ。

「いちおう(日本に)入国はできたものの、(子供を)学校にも行かせられない状態が続いて。当時は(状況の悪化が)どこまでっていうのが分からなかったので、当事者としては最悪のケースしか考えられなかった」

 真冬だった。記録的な大雪にも見舞われた。家族と一緒に実家に身を寄せた秋山さんは、文字通り八方ふさがりに陥った。

 それでもなんとか気を振り絞り、都内に住居を見つけた秋山さんだったが、ついに米司法省に正式に起訴された。

 起訴されたという事実は、予想外の場面で秋山さんの行動に影響を与えることになった。

警察は「起訴」を把握

 ある夏の夜、秋山さんは都内でうっかり交通違反をした。子供を乗せて車を運転中、間違って一方通行の道路に入ってしまったのだ。

 運悪く、パトカーに呼び止められた。

「軽微な違反なので当然すぐ(免許証を)返してもらえると思っていたら、全然返してくれないで、ずっとサイレンを鳴らしていて、周りの人もすごい集まってきた」

 何度も頼んで、サイレンだけは止めてもらった。しかし、免許証はいつまでも返してくれない。

「『ちょっと待ってください』ということになって、しばらくしたら本部の方が確認したいことがあるからっていう話になって、あ、アメリカの件だなと思いました」

 秋山さんは子供だけでも帰らせてもらえればいくらでも話はすると懇願したが、警察は「もうちょっと、もうちょっと」の一点張りだった。次々に応援の警官も駆けつけて来た。

 結局、秋山さんは子供とともに現場に30分程度とどめられた後、解放された。

 米国で起訴されたことを、警察が把握していたのは間違いない。

 ただし、米当局はその時点では、秋山さんの引き渡しを日本側に要請していなかった。仮に引き渡し要請がなされていれば、秋山さんは身柄を拘束されていたはずだ。

 引き渡し要請に関しては、要請国あるいは要請された国が公表することもあるが、公にされないケースも多い。本人が知らない間に被手配者となっていて、なにかの拍子に身柄を拘束される恐れもあるのである。

 しかも、逃亡者とされる人たちについては、これまで引き渡し要請がなかったからといって、今後もないとは断言できない。いつ事態が変わり、引き渡し要請が行われるか、事実上、予測不可能なのである。

 秋山さんがそうした不安から解放されることはない。

「『世の中、一瞬ですべてがひっくり返っちゃうんだ』という怖さがやっぱり残ってて、今もちょっとこう、何かが順調に行っても、『またでも朝起きたらいきなり全部がひっくり返ってるんじゃないか』という怖さはありますね」

 秋山さんは米国で起訴されており、その意味では「被告人」だ。ただ、日本にとどまっているため「逃亡者」の扱いを受けているが、日本では「被告人」ではない。現在も普通の市民として生活を送り、ビジネスも手掛けている。

 それなのに引き渡しの恐怖から解放されることはない。国外に出るのはご法度だ。

 自動車部品カルテル事件で起訴され、日本にとどまっている30人に上る日本企業社員も、同じような境遇にある。

「域外適用」

 その背景にあるのが、米国の法律を他の法域における犯罪にも当てはめ、違反を犯した外国企業や外国人の摘発を可能にする「域外適用」という慣行だ。

 米国法の域外適用について、日本政府は現在、ほぼ容認しているようだ。

 米国だけでなく、先進国から新興国に至るまで、カルテルをはじめとするホワイトカラー犯罪の取り締まりは積極的に行われており、国際間の協力も推進されている。

 グローバル化に伴い、法規制の適用も国境の枠を越えるようになった。銀行強盗や麻薬密売人でもない普通のビジネスマンが、外国で収監されたり、引き渡し対象になったりするのが珍しくない時代になったのである。

(なお、秋山さんが関与したとされる事件では、米国で有罪判決を受けた元同僚が一転無罪となるなど、法律判断が分かれている。秋山さんの弁護士も、時間はかかるかもしれないが、起訴取り下げを目指そうとしている。そうしたことを考慮すると、秋山さんが今後、引き渡し対象となることはまずないとみられる)

有吉功一
ジャーナリスト。1960年埼玉県生まれ。大阪大卒。84年、東レ入社。88年に時事通信社に転職。94~98年ロンドン支局、2006~10年ブリュッセル支局勤務。主に国際経済ニュースをカバー。20年、時事通信社を定年退職。いちジャーナリストとして再出発。著書に『巨大通貨ユーロの野望』(時事通信社、共著)、『国際カルテル-狙われる日本企業』(同時代社)。

Foresight 2020年7月28日掲載

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