香港「国家安全法」で激化「米中新冷戦」と「一国二制度」の変質

国内 政治 Foresight 2020年6月30日掲載

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 香港の「国家安全維持法」が中国全国人民代表大会(全人代)常務委員会で6月30日、委員162人全員の賛成で可決され、習近平国家主席が署名して公布された。これを受けて、香港で30日午後11時に施行された。

 中国の改革・開放や米中接近の象徴でもあった香港の「一国二制度」の大きな変質は避けられず、同法案の成立に懸念を抱く米国など西側諸国の反発は確実で、香港問題が米中「新冷戦」の最前線となる様相が濃くなっている。

香港基本法の「抜け穴」

 1997年に英国から中国へ返還された香港は、「一国二制度」という制度設計のもと、「高度な自治」を50年間にわたって保証されていた。行政、司法などの独自性を支えるのが「香港の憲法」と呼ばれる香港基本法で、同法によって、英国式のコモン・ローに基づく香港と、社会主義体制下の中国は、別々の世界に分けられているはずだった。

 ところが、今回の国家安全法は、そんな香港と中国の境界を易々と乗り越えて、「国家安全」という錦の御旗で、香港に対する中国の支配力を直接的に及ぼさせる。従来の「一国二制度」の構想を覆してしまう恐れが強い。

 中国側にとっては望ましい習近平流の「一国二制度」かもしれないが、香港社会に「国家安全法は香港の一国二制度を踏みにじり、死に追いやるものだ」(民主派の公民党立法会議員・陳淑荘氏)という見方が広がるのも無理はない。

 中国が強引に見える手法で香港へ国家安全法を導入できるのは、香港基本法の抜け穴とも言える部分を活用することによる。香港人自身を含めて、多くの人が、今回の導入を予想できなかったと述べているのは、たとえ法律上は可能であっても、まさかそんな手は使ってこないだろうと思わせる「裏技的」なやり方によるものだったからだ。

 香港基本法には18条2項に、

「全国的な法律は、本法付属文書3に列せられたものを除いて、香港特別行政区で実施しない。本法付属文書3に列せられた法律は、香港特別行政区が現地で公布するか立法化して実施する」

 と書かれている。

 全国的な法律とは、香港独自の法律ではなく、中央が制定する法律という意味である。この条項は本来、国防や外交に関わり、しかも緊急度の高い余程の事情がない限り、「全国的な法律」は香港では実施しないという抑制のためのものだったのだが、今回はその立法趣旨とは逆の方向で使われる形となった。

立法会選挙に大きな影響

 6月28日から30日までの3日間の会期で始まった全人代常務委員会は、もともと年に数回しか開催されないものだ。直近では6月18日〜20日に開催されたので、本来であれば数カ月先まで開催されなくてもおかしくない。それを同じ月にまた開催するというのは、何としても6月中に同法案を成立させたいという意欲の表れと見ていいだろう。

 そもそも5月21日に発表された国家安全法の制定について、5月28日に全人代で制定方針が決まり、さらに1カ月後の常務委員会で条文が決まることは、異例中の異例。あらかじめ導入ありきで動いていたとしか考えられない。

 30日の可決を経て、香港で「官報」に掲載され、それが香港基本法18条の言うところの「現地での公布」となるので、香港での立法会での審議などは一切経ることはなく施行された。7月1日、つまり香港返還から23年を迎える日、香港の「一国二制度」は歴史的な後退に直面したことになる。

 当然、想定されるのは、国家安全法の運用により、9月6日に行われる立法会選挙で、民主派グループの立候補に制限が加えられることだ。具体的に制限を加えられなかったとしても、香港政府や中国政府を批判する言論が難しくなり、選挙活動に大きな影響が生じる。

香港に「あきらめ」をつけた

 中国共産党指導部は、すでに香港政府の統治能力に信頼を置いていないのだろう。

 本来、「一国二制度」は、香港政府への信頼をもとに成り立っていた制度であった。そのため、香港行政長官選挙や立法会選挙は、親中派が勝利するように設計されている。

 だが、それでも香港は中国の思うようにはなってくれない。そのことを2014年の「雨傘運動」で痛感した中国は、2019年の逃亡犯条例改正案への抗議デモで、香港に対して「あきらめ」をつけたのだ。

 それは、昨年10月に開かれた共産党の四中全会(中国共産党第19期中央委員会第4回全体会議)で、香港問題について以下の決定が行われていることによく示されている。

(1)現行の法律と制度を完全なものにし、香港に対する中央の全面管轄権を定着させる

(2)国家安全を守る法律制度と執行のメカニズムを立ち上げて健全化させる

(3)愛国者を主体とする香港統治でなければならず、中央は行政長官と主要官員に対する任命権、監督権、罷免権を有する

(4)教育制度を完成させ、国民教育の失敗を正視する

 この言葉のひとつひとつが、今回中国が打ち出した香港版国家安全法の狙いとほぼ完全に合致する。

 同時期、習国家主席は南米訪問の際、

「香港で続いている過激な暴力犯罪行為は、法の支配と社会秩序を踏みにじっており、『一国二制度』の原則への重大な挑戦だ」

 と述べている。

 このとき、すでに国家安全法の導入について、中国の方針は固まっていたとも思わせる発言である。

 法制化となれば一定の時間が必要だ。立法会選挙での民主派の過半数獲得を懸念したのだとすれば、制定方針の決定は5月の全人代がタイムリミットだった。コロナ禍の間、北京は密かに着々と準備を進めていた。

中国政府の出先機関が法執行も

 その内容について、現在までに最も詳しい形で公表されているのが、6月20日に『新華社通信』が報じた内容である。

 それによれば、法案は6章66条からなる。香港警察および司法省に専門部門が設置され、法執行に当たる。ただ、香港には中国政府の出先機関「国家安全維持公署」が設立され、「特定の状況」のもとで管轄権を執行する。つまり法執行を行うことになる。「特定の状況」がどのようなものなのかは一切分かっていない。また、通常の警察の法執行でも、この国家安全維持公署が背後で指揮・監督を行う可能性は高いだろう。

 一方、香港政府には「国家安全維持委員会」が設立され、そのトップには行政長官が就任する。この委員会には、中央政府から顧問が派遣される。つまり、香港における国家安全法の実施は、警察による現場レベルでの執行においても、逮捕・起訴後の裁判においても、中央の影響力下におかれることになる。

 取り締まりの対象は「国家分裂」「国家転覆」「テロ活動」「外国及び外国勢力との結託」という4つの罪状となる。これらが具体的にどのような行為を指すものであるのかは明らかにされていない。また、先述の通り「特定の状況」がいかなるものかも定かでない。

 すべてが不透明なまま、法律が執行されようとしている状況に、香港社会や香港司法界からも不安の声が高まっている。

 制度上の大きな問題は、香港政府が事件を起訴する原告となるだけでなく、裁判官も任命するという形になりかねない点だ。従来の香港の司法制度では、司法人員推薦委員会が裁判官を任命していたが、国家安全法に基づく案件の裁判官は行政長官の任命となり、外国人の裁判官などは回避されると見られる。

 さらに、国家安全法は「香港の法律よりも優先される」「解釈権限は全人代常務委員会にある」と規定されており、香港の独自性を守るための防壁はほぼなくなっている。

米中の共同作品だった「香港」

 そもそも「香港」は、中国のなかに自由主義の「都市」が存在することを、米国など国際社会が裏書きすることで成り立っているシステムだった。

 その背後には中国の改革開放をサポートし、国際社会に参画してもらうというエンゲージメント(関与)政策があり、そのおかげで香港はWTO(世界貿易機関)などにも単独の経済体として加盟することができ、香港ドルも米ドルとのペッグ制が保たれて、国際通貨の地位を維持できていた。

 一方、中国は香港で経済成長に必要な資金を調達でき、西側諸国も香港を踏み台に対中ビジネスを営むというウィン・ウィンの関係が築かれており、「香港」は東西冷戦末期に接近した米中による共同作品だと言えた。

 そうした米中の香港をめぐるコンセンサスが崩れたのは習国家主席の就任からで、香港情勢の混乱と習体制のタイムテーブルは、ほとんど一致したものになっている。

 香港繁栄の前提条件を壊していく中国に対して、西側諸国では座視できないとの見方が強まっている。

 これは、1984年の中英共同声明に対する違反であると受け止めている英国は、中国に対して強く翻意を求めながら、英国が発行する海外市民旅券(BNO)の香港人所有者に英国の市民権を与える方針を表明し、「香港棄民」の受け入れ体制を作っている。

 米国は、ドナルド・トランプ大統領が香港制裁案をすでに明らかにしているが、マイク・ポンペオ国務長官は29日、香港への優遇措置を取り消す考えを明らかにした。米議会でも上院で香港自治法案が全会一致で可決されている。これは、香港の自治の侵害に関わった中国の関係者に対して、資産凍結などの制裁を科すよう米大統領に求めるものだ。

 国家安全法の成立は、香港の自由を大きく制約するだけでなく、米中新冷戦を加速させ、東アジアの国際政治環境を大きく変化させるだろう。香港が中国色に完全に塗り替えられれば、台湾、そして日本にも波及しかねない。

 国家安全法の成立後、各国は香港の民主化活動家やデモ参加者、民主派人士らの人権や人身安全が守られるよう、国家安全法の抑制的運用を求めつつ、香港情勢を今まで以上に厳しく注視しながら国際的圧力をかけ続けなくてはならない。

野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、「台湾とは何か」(ちくま新書)。訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。最新刊は「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」(小学館)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com。