【特別対談】「制裁外交」から見える「盟主」アメリカの揺らぎ(下)

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 杉田弘毅さん(共同通信社特別編集委員)の新著『アメリカの制裁外交』(岩波新書、2月刊)をベースにした、杉田さんと三牧聖子さん(高崎経済大学准教授)の「Zoom」対談もいよいよ佳境。「アメリカとはいったい何なのか」について語り合う最終回――。

三牧聖子:今回の人種差別への抗議デモを見ていると、黒人と白人の対立というよりは、世代間の考えの違いを感じます。いまの若い世代が生まれ育ったアメリカは、他国に戦争を吹っかけ、泥沼化して抜け出せない、国内では貧富の格差は拡大し続け、大学に進学したらすごいローンを抱えなければいけない、そんな悲惨なアメリカです。「アメリカン・ドリーム」をみるどころか、アメリカの現状に苛立って育った。彼らが「公平」「正義」という理想にひかれ、それらを大事な価値だと考えるのももっともでしょう。

COVID-19が突き付けたもの

三牧:アメリカ国民は国連嫌いと思いきや、最近の世論調査によると、若い世代には、アメリカ一国ではグローバルな諸問題は解決できない、各国で協力すべきだとして、グローバルな協調の場として国連を好意的にみるまなざしがあるようです。そこには、アメリカは決して特別な国ではない、様々なほころびや弱さを抱えていて、一国では生きていけないという冷静で相対的な自国へのまなざしがある。

 よくアメリカ外交の二大潮流として、「国際主義」と「単独行動主義」が、あたかも対極的なもののように語られます。しかし、そもそもアメリカにおける「国際主義」外交の生みの親のように語られるウッドロー・ウィルソン大統領(第28代、在任期間1913~1921年)の時代から、根本では単独行動主義的だと思います。ウィルソンは国際連盟を提唱しましたが、ラテン・アメリカ諸国に対するアメリカの単独行動主義的な介入の根拠となるモンロー主義は、当然その規約に埋め込む。また、第1次世界大戦に参加した後も、ウィルソンは、同盟国という言葉は使わなかった。アメリカはあくまでアソシエーション(協力国)として戦争に参加しているのだと言い張り、アメリカが嫌だと思ったらすぐ関与をやめる余地を残していた。

 アメリカが連盟に入らなかったのも、アメリカが直接に利害を持つわけではない地域で起こった戦争に、不本意な形で「巻き込まれる」ことを拒絶する姿勢のあらわれでした。自分が常に判断の主体で、主権者でなければならないという強力な単独行動主義がずっとあった。この観念は、米国の連盟加盟にこだわったウィルソンにとっても、自明のものだった。ウィルソンは、連盟に入っても、建国以来の孤立主義に、根本的な変更はないと考えていたし、そのように国民にも訴えていた。

 こう考えると、アメリカにそもそも、言葉の真なる意味での多国間主義――他国の意見も聞きつつ、必要であれば自国の政策を修正しつつ、国際平和に共同で関与し、それを促進していくといった発想はあったのかな、と疑問に思ってきます。

杉田弘毅:そうそう。

三牧:このような歴史をみると、「国際主義」とか「リベラル国際秩序」と言った、耳障りのよい言葉だけで米国外交を語ることは、もちろん米国外交のある面は捉えているけれども、本質を捉え損ねているようにも思ってしまうんです。

杉田:まさにそうですね。

三牧:アメリカは軍事、政治、経済、いまだにどの分野でも強国です。しかし、さまざまなほころびが出ており、アメリカは世界でも特別な国なのだという「例外主義」を成り立たせる条件が失われてきていることも事実です。今回のCOVID-19の感染拡大も、それを促進するでしょう。アメリカは自国の強さを誇るどころか、アジア諸国やドイツはもっとうまく感染症に対応している、とか、中国は人権弾圧はじめ非常に問題がある国だが、それでも感染症対策ではアメリカよりもはるかにうまくやっていることを認めざるを得ないといったように、他国に模範を求める状況になっている。生まれたときから、戦争で疲弊するアメリカ、経済危機で苦しむアメリカを見て育ったいまのアメリカの若者たちは、この状況に反発するより、むしろ他国のよいところを学ばなければならないという素直な姿勢をみせるのではないでしょうか。アメリカ例外主義から解放された世代。これは新しいことですし、こうした若者たちが、本当の意味での多国間主義的な、世界との関わり方を見つけていくかもしれません。

 先生が本書(『アメリカの制裁外交』岩波新書)の9、10章で描かれているような、他国でドルを使わない決済方法が生まれたりすることだけではなく、アメリカが絶対的な覇権を握って、どこにでも手を伸ばしてどういう形ででも介入できるという国際秩序に根本的に抗おうとする動きが、アメリカの外からだけでなく、アメリカの内側からも生まれてくるかもしれない。もちろん米国覇権の揺らぎはさまざまな問題を生み出しますが、そこには新しい国際秩序への希望もあるかもしれないとも思います。

アメリカはどうなりたいのか

杉田:そうですね。これは、アメリカとは何なのか、という議論になると思います。

 今起きている、人種をめぐる抗議の問題ですが、こういったことは時々起きていると言われれば確かにそうだし、白人警官の行為が「YouTube」に流れることなどバラク・オバマ時代にもあったといえばあった。

 結局アメリカとは何なのか。

 1つの側面として、人種間の和解という壮大な実験をしている国家だ、ということですね。そしてそれは、結局は失敗に終わったのかもしれない。

 ドナルド・トランプ大統領は人種カードを切って2016年の大統領選に勝ったし、2017年夏のバージニア州シャーロッツビルでの、白人至上主義者の集会をきっかけにしたぶつかり合いでも、少し前であればおそらく全く許されないような人種問題を挑発する発言を平気でしてきた人です。ジョージ・フロイド氏の死亡に始まる現在の対立でもそうです。つまりは政治がそういう流れになってしまい、人種の和解、融和を目指すアメリカの長期にわたる実験というのは失敗に終わりつつあるということなのかな、という話です。

 もう1つは、結局アメリカはどういう国になりたいのかという点です。この問いを尋ねると、若い人は「スウェーデンみたいな国になりたい」と答える。つまり福祉の国ということですね。だから、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスの人気があるからと言って、若者たちは別にソ連のような社会主義国を志向しているわけではなく、アメリカ的弱肉強食的というか、あるいは新自由主義的な社会規範ではない国を作りたい、と言うわけです。国民に優しい普通の国というイメージです。

 ところが、共和党の政治家だけでなく、オバマであろうとトランプであろうと、ヒラリー・クリントン(元米国務長官、2016年大統領選民主党候補)やビル・クリントン(第42代米大統領)であろうと、民主党もメインストリームは誰もがアメリカは強く豊かで、世界のトップでなくてはいけない、それこそがアメリカのユニークネス、例外であると思い込んでいる。軍事も金融も技術も科学もソフトパワーも、すべてがアメリカは常にトップである。アメリカ人は常にオリンピックで金メダルをたくさん取らなくてはならない。そのために激烈な競争を勝ち抜く。こうした面での「アメリカ例外主義」が、若者たちの話を聞くと、確かに曲がり角を迎えていると感じるわけです。

 ただ、そもそも新自由主義というのはきわめてアメリカ的なイデオロギー、政治経済のシステムであって、それが今後違う方向に向かうかどうかは、私もよくわからないところです。

 新自由主義的な言説は、とにかく力と脳を駆使する自由競争だ、そして競争は勝たなくてはいけない、と言う。そしてアメリカは常に、すべてにおいて勝っていなくてはいけない。

 ところが今のアメリカの若い世代は、「いやいやそれはもういいんだ」と言う。アメリカは確かに大きいけれども、人口も3億3000万で中国やインドと比べたら小さいし、面積もロシアやカナダに比べたら小さいから争ってもしょうがないし、アメリカも建国250年以上もなって特別な国ではない、大きめの普通の国になるべきだという議論があるということは間違いありません。

 そうなると、アメリカの持っている「例外」であるという理念はだいぶ曇ってきたことになるけれども、しかし相対的に見れば、まだ勝っていると言えないわけでもない。

 特に中国が今回香港で行ったことや、ロシアが進めようとしている、大統領任期を延長する憲法改正の国民投票の設定は、アメリカがやっている「悪さ」とは性格もスケールも圧倒的ではるかに悪い。

 経済的な面では、自由や人権、民主主義がフルに保障されていれば、そこにおいてはイノベーションがきっと起こるはずです。「ファーウェイ」が一所懸命半導体を中国国内で作りますと言っても、それにさらに差をつける新しいものがアメリカから出てくるのでは、という気がする。

 その意味では、アメリカの若い世代に対する期待がすごくある。アメリカの今の歪んだ部分は直してほしいと思いますが、じゃあアメリカがスウェーデンやドイツみたいな国になるかと言うと、ちょっと違うという感じもする。そこは、私は留保しておきたいと思います。

リベラル・インターナショナル・オーダーへの疑問

三牧:確かに、大統領選に向けた民主党候補者争いでバーニー・サンダースが撤退するまでは、若者も相当期待していました。ただサンダースの主張を突き詰めていくと、国内優先ということではトランプ大統領と重なり合うところもある。

 対外政策に関しては、もし民主党の大統領候補者になったとしたら、もちろんトランプよりもはるかに国際協調路線を打ち出したでしょうけど、重要な局面でどれだけリスクを負って、米国民の犠牲も辞さずにやってくれるかという部分はかなりクエスチョンマークがついていましたね。対中関係にしても一貫しない発言が目立っていました。

杉田:三牧先生にうかがいたかったのは、アメリカはリベラル・インターナショナル・オーダーをどこまで意識して外交を行ったのか、あるいは今の「米国第一」と対比される多国間主義の外交をしたことがあるのか、ということです。

 これはすごく重大な問題です。

 日本でもリベラル・インターナショナル・オーダー万歳派――私もその1人ですが――その人たちは、「良きアメリカ」に結びつけて考えるけれども、それに対して「アメリカの偽善に気づかずに騙されているだけでしょう」とか、実態もわからないまま日本が恩恵を受けてなんとなくエレベーターで一緒に上がったから素晴らしいと言っているだけで、もともと米外交にはリベラリズムや多国間主義などないんだといった指摘をされている。

三牧:リベラル・インターナショナル・オーダーは、アメリカの同盟国である日本にとってその正当性は自明のように思えても、アメリカと同盟関係にない国家、さらには米国に敵視された国家にとってどういうものだったのか。こうした他国の視点から眺めることが大事だと思います。

 やはり現今システムにおける強者は、先にお話ししたカール・シュミットの分析(上編参照)のように、「平和」を求めますよね。自分にとって今の状況が心地よいから。

 ところが昨今、米国主導のリベラル・インターナショナル・オーダーに対して、そこから締め出されてきた国々からの批判がいよいよ強まっている。最近、非同盟諸国首脳会議でイランのモハンマド・ジャバド・ザリフ外相が、「イランのことをテロ国家だと言うが、今アメリカがイランに行っていることは経済的なテロリズムだ」と強い言葉で強調したことが心に残りました。この発言には、120カ国を超える参加国やオブザーバーがみんな賛同しました。国連人権委員会などでも、アメリカの経済制裁の非人道性は指摘されています。

 こうした動きにはもちろん、大国に対する中小国のルサンチマンも絡んでいるでしょう。しかし、核実験によって平和を脅かす国家を、経済制裁によって懲罰することの正しさを自明視し、その制裁がいかに市民の生活や生命を脅かしていたとしても、制裁の非人道性を一切問わない、それはおかしい、という問題意識には、重要なものがあると思います。

 先生がおっしゃるように、「血が流れない」経済制裁、あるいは対象を限定した「スマート・サンクション」(賢い制裁)といった美しい言葉で語られる制裁の実態がどうなのか、血は流れていなくても、多くの人々が経済的に困窮し、最悪の場合、死に到ることになっていないか、「スマート」とはとてもいえない実態をつぶさにみる必要があると思います。

 それと同じで、リベラル・インターナショナル・オーダーも、その中で私たち日本はアメリカの同盟国として利益を享受してきた。私たちがたまたまアメリカの敵国と名指されなかっただけで、この秩序において戦争そのものがなかったわけではないですし、本書でお書きになっているような、金融ネットワークを使った経済制裁という観点から見たら、今の秩序は本当に「リベラル」と言えるオーダーなのか、という疑問が湧いてきます。

アメリカは国際協調を求めているのか

三牧:国際協調という点で言うと、たとえば国際連盟について私も肯定的な立場からいろいろ書いてきましたが、連盟の中心は植民地保有国が占め、民族自決はきわめて限定的な地域に対して、主要国の戦略的な利害に沿って認められたにすぎなかった。連盟を通じてさまざまな国際協調が実践されたことは事実ですが、他方で、それは、帝国主義的な秩序を根本から問うものにはなりえない。連盟に加入しなかったソ連は、国際連盟は所詮、帝国主義国が自分たちにとって有利な現状を保全するための道具にすぎないと批判していました。これは確かに、連盟の一面しかみない偏った批判ではあったのですが、しかし、その根本的な限界を鋭く指摘してもいた。

 第2次世界大戦後のアメリカと国際連合とのかかわりにしても、アメリカは、総会において自由主義陣営が多数を占め、アメリカの戦略的な目的のためにうまく使える限りおいて国連における国際協調の重要性を訴え、それに関与したものの、その後、植民地が次々と独立し、非同盟諸国の国連加盟が増えてアメリカやイスラエルに対する批判が増えると、次第に背を向けていく。

 冷戦終焉後の例をあげれば、国際刑事裁判所という、国際正義という観点からすると素晴らしい仕組みができたのに、米兵が訴追される可能性があるということで簡単に背を向けた。

 こうした歴史に見出されるのは、自国の利益にかなう限り、米兵や米国民が問われない限りで、国際協調を追求するという外交姿勢です。多国間主義外交とは、他国の意見をとりいれたり、その利害や価値観とすりあわせたりしながら、よりよい世界秩序、より公正で人が死なない世界をつくっていくことだと思いますが、こうしたことについてアメリカはどれだけの気概を持っていたのか、アメリカ外交の実態がどれだけ多国間主義的であったか、ということについて、いろいろ疑問符がつけながらみていくことが大事だと思います。

杉田:そうですね。確かに、国際社会なんて基本はそんなものでしょうと言ってしまえば済んでしまうことなのだけれども、一方で、リベラル・インターナショナル・オーダーを世界の憲法みたいに奉っているという、不思議な論理の飛躍というか、理念と現実の間がポッカリと空いた中抜きが出来上がってしまっている。このような状態がある限り、つまり理念と現実の乖離を結ぶ具体的な構造物をつくる努力がない限りは、イランなどの非同盟諸国や、あるいは中国なども含めた非リベラルの国々に対抗するようなきちんとした論理は作りえない。

 もちろん、アメリカでは若い人たちの考えや世論の居所を見据えた上での政治や経済の仕組み、あるいは対外政策や同盟政策はどうあるべきか、といったことを論じる論文はたくさん出ています。現在の米国の力、世論、国際情勢を背景にして、「世界の警察官」でなはく、かつ世界から隔離したアメリカでない外交の在り方を模索する議論がなされている。

 ところが、そこで打ち立てられようしている構造が、日本ではなかなか理解されない。結局トランプ外交は全部だめだということになり、オバマ時代はよかったとかクリントン時代がよかったというような、非常に単純化された議論になってしまっている。

単純化された国際認識

杉田:国務長官のマイク・ポンペオという人がいます。先日、ジャーナリストのトーマス・フリードマンが「アメリカの国務長官の中では史上最低」という内容の長大なコラムを『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿するくらい評判が悪い人ですが、彼が2018年暮れに『フォーリン・アフェアーズ』に書いた論文がなかなか面白い。

 ポンペオ氏はこの論文で、対イラン政策について3つのことを書いている。

 1つ目は、経済制裁をバンバンやりますということ。

 2つ目は、軍事力も使って抑止するということ。ただ、戦争はしない。

 3つ目は何かというと、イラン政権や指導部の腐敗や、各地のテロリスト支援の実態を暴いていき、いわゆる国際世論合戦で勝っていく、というもの。つまりは情報戦ですね。

 この3つしか考えられないのかな、という感じがする。イランと向き合う外交がない。

三牧:本当に貧弱ですね。

杉田:そう、すごく貧弱。でも逆に言うと、ポンペオ氏はずっとイラン問題にかかわっていたのに、今はこの3つしかアメリカは考えられないのかなと思うと、アメリカ外交のバックボーンである国民世論というのは結局こういうところなのだ、と思い至りました。

 アメリカが超大国として恩恵や利益を受けるけれども、その分税金を使うし血も流す、外交も本腰を入れてやる、といった、やはりアメリカはすごい国だ、日本やドイツでは果たせないような役割を担う、そういう深みのあるところが超大国たる理由なのだというような、われわれをうならせるようなものが何もない。そこはまさに三牧先生のおっしゃる通りです。

三牧:先ほど紹介されたポンペオ氏の、レジームチェンジ(体制転換)を示唆する発言は、特に対中関係が悪化する文脈においては、アメリカと異なる体制の国とは共存できない、という意味を持ってきます。

 私は、レジームチェンジ的な発想というのは、イラク戦争であれだけひどい失敗をして以降、抑制されていたと思います。

 もちろん、すべての国家が民主主義になることがあれば、それは望ましいことかもしれませんが、国際政治の現実においてこの理想を追求すればほぼ必ず武力衝突が起きます。相手が体制転換するまで武力なり経済力で圧力を与え続ける、犠牲を強い続けるという、ものすごく破滅的な政策を導きかねない。

 これまでのアメリカ外交には、理想と現実とをすり合わせるような発想や抑制があったと思うのですが、トランプ政権には――中国の香港に対する強圧的な姿勢や、ウイグル民族の人権弾圧がもはや看過できないレベルになってきたという中国側の事情も多分に影響していますが――そうした外交の機微がない。人権弾圧には、厳しく対処しなければいけないけれど、他方で中国との対話の道を閉ざさず、それなりにうまくやっていかねばならない。こうしたなかなか両立し得ない困難な課題を、知恵を絞りながら、繊細に追求していくような忍耐がない。一方に振りきれたらすべてにおいて対立するというような、すごく単純化された国際認識に支配されているようにも見える。ここに今の米中対立の恐ろしいところがあると思います。確かに人権問題における対立は避けられないと思いますが、それが本当に対立の位相しかなく、他のシナリオに重層的に支えられているということがない。

損なわれるアメリカの権威の裏付け

杉田:私は、トランプ大統領に内外政とも共通しているのは、今回の人種問題の抗議暴動からもわかるように、連邦軍をすぐ投入するというようなことを、全然実現性の検討もなく発言してしまうところにあると思う。

 同様に、イランに対してレジームチェンジ的なことを言ってしまう。あるいは中国に対しても飛躍したことを要求してしまうなど、極端な話になるまでの間の段階的な外交がない。

 だからたとえばWHOから脱退すると言っても、そうするのに1年かかるとすると、その間にトランプ大統領がいなくなったらどうなるのか、という話になる。要するに彼の政策発言を世界はまともに受け止めない。

 国内の暴動に連邦軍を投入するといっても、アメリカ軍の行動のメカニズムとか行動の制約、そもそも連邦軍の役割とは何かを知っている人々は、そんなことは実現できないことを理解して、「トランプがまた変なこと言っている」くらいにしか受け止めないですよ。

 それと一緒で、外交的にはイランのレジームチェンジみたいなことを言っても、絶対実現できないこともみんな理解している。

 そうするとアメリカ外交は、トランプ大統領のレトリックがあればあるほど、実現性という担保がないままの言葉遊びになり、本来的な意味でのアメリカの権威の裏付けがどんどん損なわれていくと思う。

 言葉と現実の乖離を埋めるという意味では確かに、トランプ大統領が退場すればだいぶ変わっていくのかもしれません。

三牧:アメリカのパワーの源泉は、経済面、軍事面だけにあったわけではなく、普遍的な理想――それはしばしば偽善的でしたが――を掲げて国際社会の信頼を獲得する、そういうところにもあった。パワーを行使するときも、理想との整合性を意識していた。

 ところがトランプ大統領はそれをかなぐり捨ててしまった。そこに残るのは、むき出しの言葉とむき出しの力の行使です。

 乱発される制裁にしても、とてもこれが平和のため、秩序回復のため、テロ撲滅のために行われたとはいえないレベルになっており、もはやアメリカという存在が、一定数の国家にとってリスキーな存在になっている状況があります。それは、アメリカのパワーの重要な一角、モラル・パワーを損なう行為です。

狭くなる主権不干渉主義

三牧:あと本書ですごく面白かったのが、米国法の国外適用の拡大についてです。

 そもそもモンロー主義は、ヨーロッパとアメリカの相互不干渉のための原理でした。

 ところがまずアメリカが、ラテン・アメリカに介入するために意味内容をずらしていき、さらには国際連盟規約に挿入して世界に拡張し、それを使って世界のどこでも介入できるようにしたという流れがある。

 中東問題の専門家でイラン制裁にもかかわったケネス・カッツマン氏は、「アメリカの金融システムが打撃を受けたら、アメリカにとって死活的な問題になるから、それをディリスキング(リスク回避)することは米国の自衛行為だ」と言っています。

 これはアメリカ外交のうまいレトリックのずらしです。「自衛」と言いながらとても「自衛」で括れないはずの範囲の行動が、「自衛」の名のもとに正当化される。これは実態を見ればおかしいことがわかるけれども、論理としてはあながち否定できない。国際法違反ではないし、アメリカの法律を米国民のために拡張していくといえば、いちおう説明はつく。ただこういうレトリックも、トランプ政権のように節度なく乱発するとさすがに通用しなくなってくる。

杉田:グローバライゼーションの進展とともに、国際法が持っている主権原則、つまり不干渉主義を適用する分野がどんどん狭くなった。

 特に経済分野においては、多国籍企業の存在や、情報通信の分野で言うなら「GAFA」(「Google」「Amazon」「Facebook」「Apple」)などのビジネスは、本当に国境を超えた存在になっている。そんな中で国際法の原則は適用できるのか、が問われているのは間違いない。

 国際法の専門家などから話を聞くと、ものすごくチャレンジングだと言います。

 つまり、環境問題とか地球温暖化の話を考える場合、これらは国境を超えるグローバルな問題なので、国家の責任をどう限定して責任を負わせるべきかを判断するために、科学、環境政策、あるいは経済学のすごい量の文献を読んで複雑なメカニズムを勉強しなければならない。加えてこれまで積み重ねてきた国際法の原則や規範、あるいは過去の判例をもとにして判断しなければならない、と言うのです。

 グローバル化と国家主権の関係で面白いと思うのは、COVID-19が国家主権の復活をもたらした、という話です。

 たとえば、国民皆保険制度がある国は比較的うまく乗り切ろうとしている、といった分析のことです。

 こうした、主権国家が持つ国民への縛りの対価として医療という公的サービスを不足なく提供するという社会契約が重要だということになると、その中でグローバライゼーションの見直しはどうなり、国際秩序はどういう形になっていくのか。

 もっともグローバライゼーションは逆戻りしないだろうし、NGO(非政府組織)や多国籍企業といった国家ではないステークホルダーはどんどん広がっているし、彼らが権限を譲り渡すこともないだろうから、そういう意味では非常に複雑化しているのは間違いない。ただこれからは国家主権が力を取り戻す。民主主義の機能不全や資本主義の本質的な決定をただすためにも、国家という単位の確立、国境の復活が必要になる。その流れをCOVID-19がまた一歩後押しすると思います。

 その中では、先ほども議論した新自由主義的なグローバライゼーション万歳とか、私も含めてリベラル・インターナショナル・オーダー礼賛派の考えは後退していくのかもしれない。

相対的な自国意識をどう持つか

杉田:COVID-19がどういう形で世界を、アメリカを変えるのかということは、まだまだ現在の全体的な被害状況がわかりませんし、今後さらに第2波、第3波があるかもしれないという段階では何とも言えませんが、トランプ大統領が11月の選挙で敗北するということがあるとするならば、今回の国内の人種問題があるだろうし、COVID-19に対するハンドリングの悪さも理由になるでしょう。その意味では、アメリカの方向転換が少し進むかもしれません。

 それから世界的には、加速する国家主権の回復の一方で、インターナショナルな形での交流はあまり影響を受けないのではないか。つまり、十何時間も飛行機に乗って海外出張しなくても、同じような仕事ができる。だから、国家主権の回復とグローバライゼーションの高度化が同時で起こる時代のような気がします。

 アメリカという国家の方向性――例外主義が貫徹されるのか、それとも普通の国としてワンオブゼムになっていくのか、というアメリカの長期的な将来像の行方――COVID-19がどう影響するのかということは、まだ見えてこない。ただ、アメリカはゆっくりではあるが、変わらざるを得ない。

三牧:アメリカが盟主のリベラル・インターナショナル・オーダー、という過去を理想視して、現在を、そこからどれだけ逸脱しているのかからはかる発想から抜け出せないと、なかなかオルタナティブの国際秩序を、現実的なものとして描けないと思います。私も未来が明確に見えているわけではありません。でもそういう秩序も考えておく必要はあると思います。

 日本の中でも中国への強硬論が当然高まってしかるべき理由があり、いまみんな中国に怒っている。でも共存しないわけにはいきません。盟主には据えないにしても、それなりに責任ある存在として中国を国際秩序にどう取り込んでいくかということは、アメリカのみならず、私たち日本も考えていかなければならない。

 すでにさまざまな国際政治学者たちが、アメリカ主導のリベラル・インターナショナル・オーダーに代わる国際秩序を展望してきました。数年前、アミタフ・アチャリヤ氏という、アメリカ中心的な国際関係論を批判し、非西欧から世界がどう見えるかということをずっと研究してきた学者が、政治学者のイアン・ブレマー氏が言う「Gゼロ」――盟主がいないと秩序は安定しない――という発想を批判して次のように言っています。

 アメリカが盟主の役割を放棄しても、今の中国はとても信頼できず、中国が盟主の国際秩序は受け入れられない。しかし、これまでのアメリカをみても、リベラルで穏健的な盟主とはとても言えない現実もたくさんあった。つまり、そもそも盟主を前提とし、それに依存する国際秩序そのものが乗り越えられていかねばならないのではないか、と。もちろん現実には容易ではないけれども、少なくとも国際政治学の課題として考えていく必要があるのではないか、と。重要な問題提起だと思います。

 こうしたアチャリヤ氏のような議論は、アメリカに対して相対的な認識を持つ、アメリカの若い世代にも受け入れやすいものだと思うのです。

 今回の人種差別抗議デモでも、ビリー・アイリッシュさん(シンガーソングライター)など、若者の発信が目立ち、アメリカのみならず、世界に広く影響を与えています。確かにアメリカは、先生がおっしゃったような実験国家で、人種平等の理念はまだ貫徹されていません。しかし、私は人種差別抗議デモの広がりは、必ずしもアメリカのモラル・パワーの衰退につながるとは思っていません。アメリカの人種差別が露呈し、アメリカの理想は、単なる理想に過ぎなかったといったネガティブさよりも、ジョージ・フロイドさんという1人の黒人男性の死をきっかけに、人種平等という理想を求めてこれだけの大抗議が起きるというポジティブなまなざしで見ることもできるのではないかと思うのです。

 トランプ大統領がデモ隊の武力鎮圧をほのめかしたことについては、軍の重鎮であるジェームズ・マティス前国防長官みたいな人まで、憲法の理念を掲げて、いかにもアメリカ的なレトリックで痛烈な言葉で批判する。こういうアメリカの良さはまだ生きていて、未完の理想をあくまで追求し、市民が声をあげ、団結する国としてのアメリカというストーリーはまだ健在であるようにも思います。こうしたストーリーは、中国や他の国になかなか見出せるものではない。こうした意味において、アメリカはまだ「例外国家」といえるのかもしれないとも思います。

血を流さない「卑怯」なアメリカ

杉田:確かに、「アラブの春」(2011年から翌年にかけて、アラブ世界各国で起きた大規模反政府デモなどの総称)ならぬ「アメリカの春」という感じではありますね。

 こういうことが世界のどこで起きるだろうか、と考えると、やはりアメリカしかないという気もします。

 トランプ大統領の政策や言動があまりにもひどいので、これだけの結集力ができあがったのでしょう。トリガーとなったのはジョージ・フロイド氏の不幸な死ですけれども、一方でこうしたアメリカの良さみたいなものが危うさとともに出ているのが興味深い。

 問題はその良さが、国内の人種対立や格差、中間層の喪失の問題の解決に向けて、政治家の誰かが動いて法律を作って解決していく、つまりひと夏のフィールグッドな体験で終わるのではなく、目に見える変化がそこで生まれてくるのかということです。

 もう1つは、対外政策ですが、アメリカと中国の関係がどのようになればいいのか、ということです。

 米国としては人権の問題に対していわば「ウィンウィン」で間を取り、5対5で手打ちしましょうというところにはなかなか行きづらいし、私自身は、アメリカはそういう方向に行くべきではないと考えています。

 これは、相互尊重主義とはちょっと違う、強いて言うならビナイン(善意)な帝国主義であってほしいと思います。いわゆる例外主義的な部分をアメリカはおそらく捨てられないし、また捨てないからこそ、国内でああしたデモが起こるアメリカの良さが残っていると思います。

 香港についても、デモに対して強権で弾圧することを認めることはできないと大声で言っているのはアメリカだけです。日本のリベラル層などもあまりそういうことは全然言っていないし、ヨーロッパも腰が引けている。アメリカは理念の超大国としての責任、コストをここでは払っているし、払ってほしいと思う。

 私は、やはり、コストを払わないアメリカ、血を流さないアメリカというのは一言で言うと卑怯だ、アメリカ人がコストを払わずに巨大なベネフィットを世界から得続けているのは卑怯だ、と思います。

 まさにジョン・マケイン上院議員はそのことを言ったと思いますが、ではネオコンのように自由、人権のために戦争を簡単に始めるのがいいのかと言うと、これはもう全然違う。

 また「正義の戦争」と勇ましく言っても、万能の解はない。イラク戦争のように失敗する。一方相互主義外交も、中国と5対5で手打ちして太平洋を分割しましょうとなると、これもまた困る。結局、アメリカの外交においては正解がない。

 経済制裁についても、これが人道的にひどいことなのは間違いないけれど、私がスティーブン・ムニューシン米財務長官に「経済制裁はひどいじゃないか」と聞いたら、「いや、だけど戦争よりはましじゃないか」とズバリ言われたのです。これに対する反論は確かに難しい。

アメリカの強みを失うな

三牧:今のお話は、人権外交に常に伴うことですね。

 それが今回、対象がいよいよ中国という大国になった。しかも米中の力関係が拮抗に近づいているタイミングでもある。ここに過去最大級の人権外交のジレンマがある。

 でも少なくとも、ジレンマがあるのを認識していることと、強硬路線自体が目的化してしまうこととはまったく違います。先生がこの本でこだわられているように、実際に人権弾圧を止めるには、どのような行動が必要で効果的なのかということを考える必要がある。こうした繊細な考慮を欠いた強硬外交ほど危険なものはない。

 私たちがこの数年間、トランプ大統領の言動の数々に問題を見出し、批判しながらも、どこかトランプ大統領を批判しきれなかったのは、トランプ大統領が選挙戦中から言っていたことが全部間違っていたわけではなかったからです。アメリカの対外関与を減らすとか、米国民がこれ以上死ぬべきではないとか、アメリカの労働者は今まであまりにも大事にされてこなかったとか、国内雇用を増やすとか、こうした問題提起自体には相当正しいところが含まれていたといってもいいと思います。

 しかし昨今のトランプ大統領には、こうしたそれなりの正当性をもつ「いいこと」をかなぐり捨ててしまっている感があります。

 WHOにさまざまな問題があることは事実です。しかし、パンデミックがまだまだ広がり、これから最貧国が本格的な被害を受けるのではないかといわれているタイミングで脱退を言い出すとか、憲法やこれまでの米国政治の歴史を踏まえていたら、ありえないような人種差別問題への無理解などですね。

 熱狂的なトランプ支持者は一定数必ず存在し続けるでしょうが、こうしたトランプ大統領の姿勢をみて、アメリカ国民は、いったいアメリカが追求する理想とは何なのか、「米国第一」を追求するあまり、世界におけるモラル・リーダーシップを完全に失うようなことがあってよいのか、道義的に中国と同様の次元にアメリカを落とすような行動を許していいのかなど、内省する時期に入っているのかなとも思います。

杉田:先端技術も含めていろんな意味で中国のキャッチアップを許さざるを得ないような状況がやってくると思いますが、アメリカが間違いなく中国と差異化できるのは、人権など理念の部分です。

 もちろんその理念をどう対外政策で実現していくかは、大変難しい作業です。ただ、その難しい作業を始める前に、先生がおっしゃるように、アメリカの一番の強みである人権や公正性について、トランプ大統領がその意義を否定する言動を繰り返しているということが、アメリカにとっての一番の不幸であると思います。

杉田弘毅
共同通信社特別編集委員。1957年生まれ。一橋大学法学部を卒業後、共同通信社に入社。テヘラン支局長、ワシントン特派員、ワシントン支局長、編集委員室長、論説委員長などを経て現職。安倍ジャーナリスト・フェローシップ選考委員、東京-北京フォーラム実行委員、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科講師なども務める。著書に『検証 非核の選択』(岩波書店)、『アメリカはなぜ変われるのか』(ちくま新書)、『入門 トランプ政権』(共同通信社)、『「ポスト・グローバル時代」の地政学』(新潮選書)、『アメリカの制裁外交』(岩波新書)など。

三牧聖子
高崎経済大学経済学部国際学科准教授。国際関係論、外交史、平和研究、アメリカ研究。東京大学教養学部卒、同大大学院総合文化研究科で博士号取得(学術)。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学助手、米国ハーバード大学、ジョンズホプキンズ大学研究員、関西外国語大学助教等を経て2017年より現職。2019年より『朝日新聞』論壇委員も務める。著書に『戦争違法化運動の時代-「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』(名古屋大学出版会、2014年、アメリカ学会清水博賞)など。共訳・解説『リベラリズムー失われた歴史と現在』(ヘレナ・ローゼンブラット著、青土社)が来月刊行予定。

Foresight 2020年6月28日掲載

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