世界騒然「史上初公開」ロシア「核兵器ドクトリン」を読み解く

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 筆者が38歳の誕生日を迎えた6月2日の夜、Twitterのタイムライン上に飛び込んできたニュースに目が釘付けになった。「核抑止の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎」(以下、「核抑止政策の基礎」)と呼ばれる文書に、ウラジーミル・プーチン大統領が署名したというものである。

 知られている限りでは、これ以前にロシアがこの種の文書を策定したのは、2010年の「核抑止政策の基礎」と「軍事ドクトリン」以来であるから、約10年ぶりの核戦略文書改訂ということになる。

 さらに驚いたのは、その全文が公開されたことであった。2010年版は文書の名前以外、内容は一切非公表とされ、それゆえにロシアの核戦略を巡っては様々な憶測が囁かれてきた。

 それが突然明らかになったのだから、筆者も含めた世界中のロシア軍事専門家がこの文書の中身に注目したのは当然であろう。とんだ誕生日プレゼントのおかげで、この夜をロシアの核ドクトリン文書の翻訳で過ごす羽目になったが。

 では秘密のヴェールに包まれた文書には何が書かれていたのか。以下、その主な内容を紹介していこう。

ロシア版「唯一の目的」論か

「核抑止政策の基礎」は、以下の4章から構成されている。

「I.総則」

「II.核抑止の性質」

「III.ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件」

「IV.核抑止の分野における国家政策の実施に関与する連邦政府機関、その他の政府機関及び組織の機能及び任務」

 このうち、Iはその名のとおり核抑止全体に関する一般的な考え方が記載された箇所だが、面白いのはその第5項であろう。

「ロシア連邦は、核兵器は専ら抑止の手段であり、その使用は極度の必要性に駆られた場合の手段であると見な」すと謳っている箇所である。

 核兵器は敵に攻撃を思いとどまらせること(抑止)を唯一の目的とし、敵よりも先に核兵器を使うこと(先行使用)はしないという「唯一の目的(sole purpose)」論は、2010年代のバラク・オバマ米政権下で持ち上がり、賛否両論を巻き起こした。

 安全保障上、どうしても必要な事態になれば先制核攻撃も排除しないというのがそれまでの米国の基本方針であり、オバマ政権といえども、結局は「唯一の目的」化=先制攻撃の放棄は「将来の目標」とするにとどめざるを得なかった(ドナルド・トランプ政権下で策定された新たな核戦略では、「唯一の目的」化を明確に否定)。

 ところが、今回公開されたロシアの「核抑止政策の基礎」は、核兵器の役割は「専ら抑止」である、といとも簡単に述べている。オバマ政権でさえ躊躇した核兵器の「唯一の目的」化ドクトリンをロシアは採用しているのだろうか?

ロシアの核兵器使用条件

 もちろんそうではあるまい。

 通常戦力で西側に対して圧倒的な優位を誇っていたソ連は、敵よりも先に核兵器を使用することはない、という政策(先制不使用政策)をとっていたが、現在のロシアは違う。

 ソ連崩壊直後と比べて劇的な復活を遂げたとは言え、ロシアの通常戦力は質量ともに米国に及ばないし、極東正面には中国という世界有数の通常戦力保有国も控える。

 それゆえ、ソ連崩壊後最初に策定された1993年版軍事ドクトリンは、核の先制不使用政策が放棄された。

 続く2000年版軍事ドクトリンでは、通常戦力による侵略であっても国家の安全保障が危機に陥れば核兵器を使用することが明記され、2010年版及び2014年版(現行バージョン)では、これに若干の修正を加えた文言が用いられている。

 すなわち、(1)ロシアまたは同盟国に対して核兵器を含む大量破壊兵器が使われた場合、(2)通常兵器によってロシアの国家が存立の危機に瀕した場合、という2つの場合には、核兵器を使用する権利があるというものだ。

「国家の安全保障」を核兵器の使用要件としていた2000年版軍事ドクトリンと比べると、2010・2014年版では「国家の存立」となっているのがやや異なるが、基本的な考え方は同じである。

 公的な宣言のレベルでも、ロシアは先制核使用を排除してはいないのであって、「核抑止政策の基礎」が言う「極度の必要性に駆られた場合」には核攻撃以外の事態も含まれているのは明らかであろう。

 ちなみに今回の「核抑止政策の基礎」にも、「国家が存立の危機に瀕した場合」という文言が含まれている。

「領土の一部を失う事態」も該当

 では、「国家が存立の危機に瀕した場合」とは、具体的にどのような状況なのか。

 NATO(北大西洋条約機構)の戦車部隊がまさにモスクワに押し寄せようとしている、といった事態になれば、ロシアが核兵器を使用するであろうことに、まず疑いの余地はない。

 こうした状況でも戦略核兵器(米国に届く大陸間弾道ミサイルその他の長距離核兵器)さえ健在ならば、戦場で小型の核兵器(戦術核兵器)を使用しても全面的な核戦争に発展することは避けられるはずである、というのが冷戦後のロシアの軍事戦略の基本的な考え方であった。

 戦時においても戦略抑止を維持しつつ、核使用を戦場に留めて勝利するという限定核戦争論(ロシアの軍事用語では「地域的核抑止」)である。

「核抑止政策の基礎」でも、

「核抑止は、平時、侵略の危険が差し迫った時期及び戦時を通じ、実際の核使用が始まる直前まで切れ目なく実施される」

 としており、戦闘が始まった後も核抑止は機能し続けるとの想定が明記されている。

 しかし、これほど極端ではない状況ならばどうか。

 たとえば、戦闘が始まってから比較的早い段階でロシア軍の劣勢が誰の目にも明らかになったとしたら。あるいは明らかにロシアが勝つ見込みの低い戦争が始まりそうになったら。

 従来の軍事ドクトリンの規定ではこの点が明らかにされていなかった。

 他方、今回公開された「核抑止政策の基礎」は、

「国家の主権及び領土的一体性、ロシア連邦及び(又は)その同盟国に対する仮想敵の侵略の抑止、軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」

 ことが核抑止の目的であると述べている。

 これを素直に解釈すれば、ロシアが国家存亡の危機に瀕するような事態に至らずとも、領土の一部を失うような事態も「国家が存立の危機に瀕した場合」=「極度の必要性に駆られた場合」に該当すると読み取れよう。

「エスカレーション抑止」の疑惑

 さらに興味深いのは、このパラグラフの後半に盛り込まれた「軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」という部分である。

 エスカレーションを阻止するための核使用、いわゆる「エスカレーション抑止」や「エスカレーション抑止のためのエスカレーション」という考え方は、過去10年ほど、西側軍事専門家の注目を集めてきた。

 たとえば2014年のウクライナ危機のように、ロシアが周辺国に対して軍事力を行使し、NATOがそれを実力で阻止しようとした場合(つまりエスカレーションが拡大しそうな場合)、ロシアはごく限定された核使用(威力を抑えて、無人地域もしくは極少数の人員しかいない施設を狙うような核攻撃)を行ってNATOを威嚇し、手出しを思いとどまらせるのではないかという議論だ。

 言い換えるならば、ロシアはNATOとの戦争が始まってしまった「後」の核使用(先行核使用)だけではなく、その「前」に核使用を行うこと(予防核使用)をも検討しているのではないか――という疑惑である。

「予防的な核攻撃も排除されない」

 このような疑惑を西側が深めたきっかけが、前述した非公開の2010年版「核抑止政策の基礎」であった。

 2010年版軍事ドクトリンの核使用基準はすでに述べたとおりであり、「エスカレーション抑止」を想起させるような記述は見られない。

 しかし、この前年、露紙『イズヴェスチヤ』のインタビューに答えたニコライ・パトルシェフ安保会議書記は、

「地域紛争や局地戦争であっても核使用を想定する」

「国家安全保障にとって危機的な状況下では、侵略者に対する予防的な核攻撃も排除されない」

 と述べていた。

 こうした「裏ドクトリン」が非公表の2010年版「核抑止政策の基礎」に盛り込まれたのではないかと考えられたのである。

 ちなみにロシアの国防サークルでは、1990年代から「エスカレーション抑止」型核戦略についての議論が行われてきたことが知られており、この種の核使用をロシア軍が検討してきたこと自体は間違いない。

 トランプ政権が2018年に採択した核戦略文書「2018年版核態勢見直し(NPR2018)」でもこの問題は中心的なテーマとなり、ロシアが限定核使用を行った場合に釣り合いの取れた反撃を行う手段として、トライデント潜水艦発射弾道ミサイルに威力を抑えた低出力核弾頭を搭載する方針が打ち出された。

 いわゆる「低出力型トライデント(LYT)」と呼ばれるもので、最初の低出力核弾頭は2019年中に完成し、今年2月に実戦配備された。

「抑止戦略」と「核使用戦略」

 そこで改めて今回の2020年版「核抑止政策の基礎」に立ち戻ってみると、その第1章に「エスカレーション阻止」の文言が含まれていることはすでに見たとおりである。

 となると、西側が疑ってきた「エスカレーション抑止」型核戦略をやはりロシアは持っていた、ということになるのだろうか。

 ところが奇妙なことに、具体的な核使用基準が示された第3章「ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件」には、そのような条件は規定されていない。ここで謳われているところによると、ロシアが核兵器を使用するのは次の場合であるという。

(1)ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域を攻撃する弾道ミサイルの発射に関して信頼の置ける情報を得たとき

(2)ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域に対して敵が核兵器又はその他の大量破壊兵器を使用したとき

(3)機能不全に陥ると核戦力の報復活動に障害をもたらす死活的に重要なロシア連邦の政府施設又は軍事施設に対して敵が干渉を行ったとき

(4)通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家が存立の危機に瀕したとき

 このうち、(2)と(4)は、これまでの軍事ドクトリンに記載されてきた核使用基準と一言一句同じである。

(1)はロシアに対して核兵器が発射されたという警報が発せられた時点で報復を行うという「警報下発射(LoW:Launch on Warning)」ドクトリン、(3)はサイバー攻撃などがロシアの核報復能力を低下させる場合にも報復の対象となるというドクトリンを示している点で目新しいが、「エスカレーション抑止」への言及はない。

 1つの解釈は、「エスカレーション抑止」はあくまでも「抑止」のための、言い換えれば仮想敵に対する脅しの戦略(宣言政策)なのであって、実際の核兵器使用ドクトリン(運用政策)ではない、というものであろう。

 ロシアの軍事力行使を邪魔しようとすれば核攻撃を受けるかもしれない、とNATOが疑心暗鬼になってくれれば十分なのであって、本当に予防的な核攻撃を行うことまでは考えていない、ということだ。

 ただ、そこまで公言してしまえば抑止の信頼性が確保できないので、一般的な核抑止の原則を定めた第1章には引き続き「エスカレーション阻止」の文言を入れた、といったところではないか。

 米CSIS(戦略国際問題研究所)のロシア専門家であるオリガ・オライカーは、この曖昧性は核兵器による抑止戦略と核使用戦略を意図的に混同させた、戦略的なものであるとしている(Olga Oliker, “New Document Consolidates Russia’s Nuclear Policy in One Place,” Russia Matters, 2020.6.4.)。

宣言政策は「真実の半分」

 ただ、以上を以てロシアには「エスカレーション抑止」戦略など存在しないのだと断じるのも早計である。米国のNPRと同様、「核抑止政策の基礎」は運用政策そのものではないからだ。

 運用政策とは、こうした概念文書の指し示すところにしたがって策定される具体的なターゲットやその攻撃手段のリストなのであって、基本的には公表されない最高機密文書である。

 米国の場合、かつての「単一統合作戦計画」(SIOP)や現在の「作戦計画」(OPLAN)のように、計画の存在や名称、改訂の時期程度は公表しているが、ロシアがそうした情報を公表したことは一度もなく、おそらくは今後も同様であろう。

「核抑止政策の基礎」第2章の第15項に、

「核抑止に関する戦力及び手段の使用の可能性について、その規模、時期及び場所を仮想敵に察知されないこと」

 という文言があることからしても、ロシアが核戦略の全てを公表するつもりがないことは明らかである。

 米海軍のシンクタンクである「CNA コーポレーション」のロシア専門家マイケル・コフマンが彼一流の皮肉な調子で述べているように、本当の運用政策は「窓のない部屋での会話」によって決まっているのであり、宣言政策(ここには「核抑止政策の基礎」やNPRも含まれる)はそれを規範的な言葉で装った「真実の半分」でしかないのである(Michael Kofman, “Russian policy on nuclear deterrence (quick take),” Russian Military Analysis, 2020.6.4.)。

「公表」の戦略的意図

 今回の「核抑止政策の基礎」については、ロシアが攻撃的な核戦略を採用しつつある兆候だとする見方もないではない。

 ただ、それ以前の文書の中身が明らかでない以上、2020年版「核抑止政策の基礎」が過去と比べてどれだけ目新しいものなのかは判断しがたいというのが実際のところであろう。

 しかも、その内容は概ねこれまでロシア軍事専門家の間で議論されてきた点と大きく相違するものではなく、懸念されてきた「エスカレーション抑止」も脅しの域を出る形では記載されなかった。

 となると、ロシアが今回「核抑止政策の基礎」を公表した思惑は、次の2点ではないかと思われる。

 第1に、ロシアは安全保障政策の最上位文書である「国家安全保障戦略」を年内に改訂予定であるとされており、これに伴って軍事分野の指針である「軍事ドクトリン」も近く改訂される見込みである。

 新たな「軍事ドクトリン」の核使用基準はおそらく2014年版から大きく変化しないと見られているが、そこに「裏ドクトリン」が存在するのではないかという無用の疑いを持たれないようにするという狙いが考えられよう。

 ただし、究極的にはその種の「裏ドクトリン」の存在が否定できないことはすでに述べた。

 この点が第2点に関係してくる。すなわち、2019年のINF(中距離核戦力)全廃条約破棄や来年に迫った新START(新戦略兵器削減条約)失効を前に、ロシアは核抑止のあり方を一から考え直さなければならない状況に立たされている。

 そこで、LoWドクトリンやサイバー攻撃に対する核報復といった、これまでの軍事ドクトリンになかった核使用基準を示唆し、「エスカレーション抑止」も排除されない核戦略を公表して、西側を牽制することが企図されたのではないか。

 要は透明性と曖昧性の双方を突きつけるのがロシアの戦略的意図であったと考えられよう。

小泉悠
1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。民間企業勤務を経て、外務省専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員として2009年~2011年ロシアに滞在。公益財団法人「未来工学研究所」で客員研究員を務めたのち、2019年3月から東京大学先端科学技術研究センター特任助教。専門はロシアの軍事・安全保障。主著に『軍事大国ロシア 新たな世界戦略と行動原理』(作品社)、『プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア』(東京堂出版)。『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)。ロシア専門家としてメディア出演多数。

Foresight 2020年6月22日掲載

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