美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流

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女優が来る!

 それにしても、大原麗子がどうして大原「れいこ」に?

「大原さんは(読売テレビがキー局の旅番組)『遠くへ行きたい』のディレクターだったんです。ロケの下見に地方に行くでしょ。宿帳に『大原麗子』って自分の名前を書く。そうすると、本番の撮影の際に、女優の大原麗子が来る!って噂が広がって駅に人だかりができている(笑)。そんなことがたびたびあり、だったら私は『れいこ』にしようって」

 おおらかな大原だった。上から目線も全くない。「でもね」と坂元がくすっと笑った。「こう、にっこり微笑みながら、ほんとはすごいことを考えているタイプでした。それで大きな企画を次々に実現してしまう。でね、にこって笑いながら『坂元さん、あの人に連絡する?』って私にいうんです。『連絡してください』とは言わないんだな。『坂元さん、お食事どうする? お弁当でも買ってくる?』って。『買ってきて』ではない。要するに『やれ』ってことなんだけど(笑)」

 坂元は大原財閥のある岡山・倉敷でのエピソードを語った。瀬戸内海南岸の倉敷は江戸幕府の天領の風情を残す風光明媚な中核都市である。

「大原美術館にも行きましたけど、大原さんは個人的に『くらしきコンサート』も企画されて、世界的なアーティストが演奏に訪れたりもしていたその取材も。倉敷駅から14、5分のところに町家造りの旅館があるんです。お濠に面した『旅館くらしき』にときどき泊まりました。あるとき、『麗子さまのお友だちでいらっしゃるのですね!』と女将をはじめ多くの従業員の皆さんが玄関にずらりと並んで私を出迎えて下さったのには驚きました。あの時に大原家のすごさがわかりました」

 一頃、国民的クラシック番組といえばテレビマンユニオンが制作、TBSが放送した山本直純の『オーケストラがやって来た』(1972~83年)だった。プロデューサーは萩元晴彦、クライアントは電電公社。萩元がチーフディレクターに指名したのが大原れいこだった。

 萩元は山本直純と自由学園の同級だった。山本は幼馴染の萩元に同じ齋藤秀雄門下にいた小澤征爾を紹介している。欧米で数々の賞を受けたにもかかわらずN響楽団員にボイコットされるなど日本では不遇をかこつ小澤だったが、萩元はその小澤を支援し、日本武道館で第九を指揮する企画を立案、ドキュメンタリー「現代の主役・小澤征爾“第九”を揮る」を制作した。

 その萩元がクラシック番組の経験と実績を積ませたいと大原を抜擢した。

 山本、萩元、小澤の3人は日本に本格的なオーケストラ文化を根付かせようと夢を語り合う仲だった。

 山本は小澤と「自主独立」をキャッチフレーズに新日本フィルハーモニーを結成したが(72年)、この自主独立という理念は萩元が創設したテレビマンユニオンと同じだった。

 新日本フィルは結成と同時に「オーケストラがやって来た」のレギュラーの交響楽団となり、小澤も帰国の折に出演、そこでチーフディレクターとして実質的に采配を振るうのが大原だった。

「日本各地を公開収録でまわる番組です。10年で500本以上放送したけど、その半分を大原さんが作っていた」と語る。彼女も大原ディレクターと一緒に小澤の特番制作にプロデューサーとして参加した。それは小澤が音楽監督を務めたボストン交響楽団との日々を追った「小澤征爾 わが街ボストン」。彼女がまだ10代の頃、「小澤さんの弟・幹雄さんと成城学園中学で同級生だったんです。高校生だった征爾さんもお見かけしました。すらっとして精悍な印象でした。放課後、校内のミュージックホールでピアノを弾いていらした」

 レギュラー番組「オーケストラがやって来た」が終わっても、大原は小澤に関して大きな仕事を続けている。国交のなかった中国・北京で取材を敢行、小澤は母・さくらと一緒に生まれ故郷の瀋陽を訪れ、北京交響楽団にタクトを振ったのだが、その実現の功労者が大原だった。小澤一家は満州からの引き揚げ組だった。「お母さん、まさかもう一度ここに来れるとはね」と映像の中で小澤は母に微笑んでいる。実に60年振りの里帰りだった。中国で公演ができたのは大原の力があった。政財界、美術界へ広がる大原家のチャンネルすべてを使った。「懐かしいね。幸せだ、ほんとに幸せだ」と母を抱く小澤を映すカメラ側に大原がいた。

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