新型コロナ「追跡アプリ」がもたらす恐ろしい未来

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 世界的ベストセラー『サピエンス全史』(河出書房新社)の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、世界で蔓延している新型コロナウイルス対策について、『アルジャジーラ』にこう語っている。

「感染症の大流行とそれによる経済的な危機を軽減するために、使えるテクノロジーはすべて使うべきだ」

 世界では現在、新型コロナの感染者を追跡するスマートフォンのアプリが30種類ほどシステム開発されており、各国で導入されている。

 追跡アプリとは、PCR検査で陽性反応が出た人の行動を把握し、その人物と接近した人などを追跡することで、感染拡大を抑えようというものだ。

 日本でも、官民共同で進めていた感染者追跡アプリを厚生労働省が主導して開発・運用することが決まっている。ただ、グーグル社とアップル社の規格を利用するため、導入は6月以降になりそうだ。

 日本の新型コロナ対策は、世界的に見ても一貫して悲しいほど動きが鈍いが、ここでもそれは同じようだ。

 ハラリは、先のコメントにこう付け加えている。

「ただ、慎重に使うべきなのです」

 追跡アプリに対する警戒感は根強い。人の行動を追うだけに、プライバシーの侵害に繋がったり、政府による監視に使われたりするのではないかという懸念が議論になっているのだ。

 新型コロナが収束した後も、引き続きそうした技術が使われる可能性も否定できず、そうなれば新型コロナが私たちのプライバシーの概念を変えてしまいかねない、と見る向きもある。そしてその先には、恐ろしい世界が広がる可能性も考えられる。

 では、既に導入されている国で、そもそも追跡アプリはどんな形で使われているのだろうか。

強硬なアプローチを採用する韓国

 まずは日本でも追跡アプリが話題になった韓国だ。

 韓国の追跡システムは、言うなれば、犯罪者を追跡するように、感染者と感染の可能性がある接触者を追いかけるものだ。

 スマホの位置情報で彼らがどこにいるのかを把握し、さらにクレジットカートなどの情報を紐付け、誰がどこで食事や買い物をしたのかがわかるようにもなっている。各地に張り巡らされた監視カメラの情報とも繋がれ、行動が追跡される。これによって、感染後の行動だけでなく、感染前の行動も把握する。 

 自分がどこで何をしていたのかすべて調べられると考えると、気持ちが悪いが、韓国に国外から入国する際には、政府系の追跡アプリのダウンロードが義務付けられている。

 追跡アプリに加えて、韓国では感染者がどこで何をしたのかという情報を広くスマホに通知するシステムもある。

 ここまでの取り組みは、欧米諸国ではプライバシー問題で導入することが難しいだろう。

 ベルギー誌『ブリュッセル・タイムズ』は韓国のこうした取り組みについて、

「韓国のアプリなどは強硬なアプローチが採用され、データ保護やプライバシー、さらに自分の情報をどう使われるか決める個人の権利を無視している」

 と指摘している。

監視の度合いが強まっている中国

 プライバシー上の懸念を無視して追跡アプリなどによる新型コロナ対策に乗り出しているのは、韓国だけではない。韓国以上に徹底監視しているのは中国だ。

 中国では、大手IT企業の「アリババ」と「テンセント」がそれぞれアプリを開発。ユーザーはアプリをダウンロードし、個人情報だけでなく、体温や健康状態なども入力して監視される。過去14日間の移動履歴や、感染者などに接近した記録も残される。

 また、人口比で世界で最も監視カメラの数が多い中国だけに、監視カメラによる監視も行われているという。

 そして外出して公共交通機関を使ったり、店舗に入ったりする際には、健康状態を示す色分けされた「ヘルスコード」(QRコード)を提示する必要がある。

 グリーンなら安全で移動が許されるが、レッドならどこにも出歩けない。店舗や職場などにも行けない状態で、自主的に隔離生活を送る必要がある。

 ちなみにこのサービスは政府が実施していると喧伝されているが、実際にアプリを調べてみると、個人のデータが警察にも送られていることが暴露されている。

 普段からネット監視や検閲などが厳しく行われている中国なら、もはや驚きすらしないが、それでも新型コロナ対策によって、当局が国民の健康状態などさらなる個人情報を入手できてしまっていることは看過できない。監視の度合いが強まっているのである。

 今回の追跡システムにも関わっているアリババやテンセントは、スマホ決済で中国を席巻しており、都市部ではスマホ決済がなくては生活が不便になってしまうほど。おそらく、個人の行動や買い物、ローン状況など生活に関わるあらゆるデータを大量に蓄積しており、それらもまとめて移動履歴や健康状態と紐付けられているはずだ。

アジアのみならずヨーロッパでも

 新型コロナ対策の成功国として評価されている台湾でも追跡アプリが導入されている。14日間の自主隔離をしなければならない人たちがアプリを利用し、少しでも家から離れたりすると警告が届くシステムだ。ちなみに違反者には罰金が科される。

 台湾はまだ感染者数が少なかった今年1月末にはアプリ開発に乗り出し、数日でアプリを完成させ、スピード感をもって導入している。民間では、マスクの在庫などを示すアプリも開発されて、多くの人に利用された。

 ただ、こうしたアプリもかなりの個人情報がスマホから吸い上げられているとの指摘もあり、警戒する人たちもいる。

 また香港では、隔離の際に行動をトラックするリストバンドをつけるよう義務付けられているし、シンガポール政府が開発した新型コロナ対策アプリも接近した人たちを記録するものだ。

 インドでも、政府が開発したアプリのダウンロードが国民全員に実質強制され、利用されている。

 アジアだけではない。

 ドイツ政府も、睡眠時間や脈拍、体温を管理するスマートウォッチ用のアプリを提供している。

 アイスランドではGPS(全地球測位システム)を利用した追跡アプリが使われた。

スマホユーザーの80%が参加しないと……

 米国では、咳をしている人や熱のある人を把握し、屋外でソーシャル・ディスタンスが保たれているかをチェックできるドローンも開発されている。

 当局はプライバシーなどの問題で追跡ドローンの採用には慎重になっている。つい先日も、導入を検討していたコネチカット州で人権団体から批判が起こり、中止に追い込まれている。ただ民間の遊園地や交通機関などから導入希望があるという。

 米国のある調査によれば、世界でこうしたアプリのインストールを国民に強制している国としては、中国とインド、そしてトルコが確認されている。

 これらの追跡アプリは、使う国によって効果が大きく違う。国民にインストールを強制する国のアプリは、プライバシーを無視してデータを集めるため、比較的、効果的に機能している。

 その一方で、インストールが義務ではない国では、その効果は非常に限定的だと言われている。

 英国では、

「スマートフォンユーザーの80%が参加して協力しないと追跡アプリは効果がない」

 との声もある。

 強制できない国でどうしても必要になるのは、人による追跡活動だ。かなりの情報を集めている韓国やシンガポールでも、追跡アプリだけでなく、人が介在した追跡も徹底して行っている。

 最先端の技術を駆使したアプリといえども、人による感染者の追跡にはまだ敵わないというのが現実だ。

監視がニューノーマルになるコロナ後

 それでも、個人の情報が新型コロナ対策という大義のもとに吸い上げられていることは事実である。

 多くの国が、個人情報は記録しないと主張し、新型コロナが落ち着けば、追跡システムは作動させないとも言っている。だが、それを額面通りに受け止めるべきではないとの声もある。

 ハーバード大学ケネディ行政大学院教授で国際政治学者のスティーヴン・ウォルトは、米誌『フォーリン・ポリシー』でこんな指摘をしている。

「ニューノーマル(新しい常態)に向けて準備をしたほうがいい。政治的なご都合主義と、今後の新たなパンデミックへの不安によって、多くの政府がいま導入している新しい力をそのまま維持しようとするだろう。旅行に行けば、体温を測られたり、綿棒で鼻の奥の検体を採られたりすると考えたほうがいい。多くの国で、携帯電話をチェックされることにも慣れないといけないし、あなたの写真も撮られるし、位置情報で居場所を追われる。しかも、そうした情報が公衆衛生目的に限らない使い方をされることもあるだろう。コロナ後の世界では、ビッグ・ブラザー(政府)が監視をすることになるのだ」

「何に怒って何に笑うのか」も把握される

 また冒頭のハラリも、さらなる懸念をこう示す。

「いまの焦点は感染症だけである。だがその監視システムには、身体の内部の情報が必要になる。体温や血圧、脈拍などだ。そして監視活動が『皮膚の内側』にまで及ぶと、他の数多くの目的で活用できるようになる」

 例えば、私たちがどこで何をし、何を見ているかという客観的な情報だけでなく、何を感じているのかという主観的な情報まで取得されるようになっていくという。

「何に怒って何に笑うのかが、把握されていくのです」

 そうなれば、私たちの政治的な意見や考え方などが監視システムに把握されてしまう可能性もある。

 中国で習近平国家主席の発言を報じるニュースに、人々がどんな感情を抱いているのかが分かってしまうし、政府に怒りを抱いているとみなされた人は、「矯正」されるかもしれない。

 現在の技術的進歩を考えれば、そう遠くない未来にそういったテクノロジーは現実になるだろう。

 これを手にした権力者は、今以上に完全な独裁体制を築くこともできるかもしれない。追跡アプリは、恐ろしい未来への重要な「一歩」になるかもしれない――。そんな見方もある。

 新型コロナ危機という人命に関わる状況において、人々のプライバシー侵害に対するハードルが下がり、厳しい監視システムを導入する機会を得た国々が、コロナ後にどのような変化を遂げていくのか、注視が必要である。

山田敏弘
国際ジャーナリスト、ノンフィクション作家、翻訳家。1974年生まれ。講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版などを経て、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のフルブライト研究員として国際情勢やサイバー安全保障の研究・取材活動に従事。帰国後の2016年からフリーとして、国際情勢全般、サイバー安全保障、テロリズム、米政治・外交・カルチャーなどについて取材し、連載など多数。テレビやラジオでも解説を行う。訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)など、著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』(新潮社)、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文芸春秋)など多数ある。

Foresight 2020年5月25日掲載

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