新型コロナで亡くなった勝武士さん 中学時代の恩師が語る“エアーギターの思い出”

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低血糖で不戦敗

 勝武士さんは山梨県甲府市出身。甲府市立朝日小から竜王中に進んだ。

「小学校の時から柔道をやっていて、柔道の強い竜王中に進学しました。彼の母親は『うちの息子は勉強が嫌いなので、中学を卒業したら大相撲をやらせる』と言っていました。彼女は高田川部屋の行司と知り合いでしたので、高田川部屋に入ることになっていたんです。当時、彼は身長が160センチちょっとしかなく、私は『人の2倍、3倍練習しないと勝てない』とアドバイスしていました。性格は真面目で『もう、よせ』と言うまで練習をやっていましたね。中学2年の時、柔道の団体のメンバーに入りました。中学3年の時には、県大会の90キロ以上の重量級で優勝しました。体重は94キロありました」(同)

 勝武士さんが中学1年の時、高田川親方がスカウトするために竜王中を訪れたという。この時、親方の目に留まったのが先輩の竜電だった。

「その時竜電の身長は180センチを超えていて、柔道を続けるために前橋育英校に進学することを決めていました。ところが、高田川親方の熱心な勧誘で力士になったのです。勝武士がいなかったら、竜電は力士になっていませんでした」

 竜電は中学を卒業すると高田川部屋へ。その1年後に勝武士さんも高田川部屋へ入門した。初土俵は2007年の春場所だった。シコ名は、親方の勝巳から1字もらった。

「勝武士は、中学の頃からひょうきんなところがあって、紙を黒く塗って手製のサングラスを作り、それをかけてエアーギターを弾き、歌って人を笑わせていました。相撲でも、2014年から始めた巡業の初っ切りでは、よく人を笑わせています。対戦相手と肩を組んでケンケンをして、顔を突き出してピース、あるいは、跳び箱のように相手の体の上を飛び越えたり、ボクシングをやってみたりと、巡業で彼の初っ切りを観るのが楽しみでした。『お前にはぴったりだ』と言ったこともありました」(同)

 普通、禁じ手を披露する初っ切りは、2年でお役御免となるが、勝武士さんの場合は客受けが良かったのか、5年以上も務めた。

 勝武士さんが糖尿病になったのは、2014年。

「16年の初場所では、土俵に上がる前に低血糖障害となり、相撲が取れずに不戦敗したことがあります。よくインシュリンの注射を打っていました。でも、稽古はちゃんとやったし、ちゃんこもよく食べていたから、それほど深刻ではなかったと思います」(同)

 佐々木さんが勝武士さんと最後に会ったのは、今年の2月である。

「2月10日に、甲府市で竜電山梨後援会の懇親会があったのです。会が終わってからも、勝武士と竜電と3人で飲みに行きました。勝武士は女の子のいる店がいいと言うので、クラブに行きました。女の子の前で歌を唄っていましたね。竜電に、『お前は1千万円以上稼いでいるんだから払ってくれよ』と言うと、『女房がいますから』と。勝武士は独身ですが、相撲協会から月に7万円しかもらっていないので、食費を払ったら何も残りません。結局、勘定は私が持つことになりました」(同)

 ベテラン相撲記者がこう言う。

「聞いた話では、勝武士は普段の稽古より、初っ切りの稽古を熱心にやっていたそうです。幕内を望めない力士は、選択肢は2つあります。1つは、初っ切りに専念すること。もう1つは、ちゃんこ屋を開業することです。初っ切りは巡業を盛り上げるには欠かせない仕事で、引退相撲の時にも必要な演芸です。こうやって巡業を盛り上げる実績を作っていけば、いずれ幕下力士などを世話する若者頭や世話人になれるチャンスがあります。彼はそれを狙っていたのではないでしょうか」

週刊新潮WEB取材班

2020年5月18日掲載

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