「危機こそチャンス」地方から元気に「人財と縁結び」の東北企業

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 お金、もの、工場、輸出、IT(情報技術)……。いずれも経済社会のキーワードだが、何より重要なのは「人財」だ。

 東京一極集中といわれて久しい人の流れを逆にし、地方に呼び戻そうという「縁結び」の会社が仙台にある。

 元証券マンが古里・東北からスタートし、全国100以上の金融機関と提携・連携し、東京を経験した人材と地域の中小企業の縁組みを支援。またそのノウハウを生かして結婚相談所も創業し、全国一の成婚実績を上げているのだ。

「新型コロナウイルス」禍のいま、「危機という言葉には、リスクだけでなくチャンスもある」という社長の言葉を聴いてみたい。

「1年以内成婚実績数」で全国一

〈縁の下の力持ち 全国1位/19年成婚実績数で仙台・マリッジ社/40%超 入会1年以内〉

 こんな見出しの記事が、1月23日の『河北新報』経済面に載った。

 この会社は、仙台市に本社がある結婚相談所「マリッジパートナーズ」。「日本ブライダル連盟」に加盟する1640社の中で、入会者の「1年以内の成婚数」が昨年1年間で47人と、2位の業者の約2倍の実績を上げて日本一に輝いたのだ。

 同じく成婚率では、入会者3人に1人が1年以内にゴールインした結果になる(同じ団体の平均では約10%)。

「1位という連絡をいただいて、何の1位だろうと思って上京したら、表彰式だったので驚いた」

 と中村万紀統括部長は話す。

 同社は、別団体の「日本結婚相談所連盟」からも同年下期の成婚優秀賞、入会優秀賞をダブル表彰された。

 2018年4月〜2019年3月の成婚率は、実に61%に上ったという。

 お見合いパーティーなど華やかなイベント中心の従来の婚活ビジネスとは異なり、

「入会者ごとに専任の『婚活コンシェルジュ』を付け、出会いから結婚までを責任もってサポートしています」(中村さん)

 婚活コンシェルジュは同社に9人。入会者は最初に、きめ細かなカウンセリングを受ける。

 自分を売り込む処方箋づくりではなく、さまざまな質問からプロの目で人柄を確かめ、何が原因で「独りのままのいま」だったのかを聴き、それまで本人も気づかなかった長所を引き出し、鏡に映すように自分の魅力に気づかせ、プロフィール作りとともに自信を育てる。

 自社や連盟加盟社のデータベースから相手選びをしたり、お見合いのリクエストを受けたりするが、

「見た目で断るのではそれまでと同じ。『共通点、ありますよね』とか、考えるポイントをつくってあげます」

 と、チーフアドバイザーの東山和美さん。そのために、お相手候補をサポートする同僚コンシェルジュや、時に加盟社の担当者らと、お相手候補について情報交換をし、当事者たちにとって気づきや選択の材料を出しながら、話を前に進めるか、お断りするか、親身な相談役になっていくという。

 お見合いの前には、相手方とコミュニケーションを交わしやすくなるほどの理解も進み、コンシェルジュは励まし役にもなる。女性に対しては、エステサロンと組んで「キレイになるための魔法のレッスン」と銘打つセミナーを催し、男性には身だしなみを指南する。

 入会者は地元宮城など東北6県が7割だが、申し込みは北海道から沖縄まで全国からある。

 いまの時代らしくユニークなのは、「結婚しない、できない」でいる息子、娘を心配する親のためのセミナーも、仙台や盛岡、八戸、会津若松など東北各地で年に35回も開催していることだ。仙台では、生協やカルチャーセンターとタイアップしている。

 生涯未婚率(50歳まで未婚の人の割合)は現在、男性がほぼ4人に1人、女性が7人に1人とされるが、

「本心では結婚を望んでいるのでは。結婚を勧めればハラスメントと言われる時代で、『社内恋愛禁止』を規則にする職場もあり、お世話好きのおばさんも近所にいなくなった。ネットでは婚活パーティー企画が花盛りだが、イベント目的の場に期待を裏切られ、『パーティーは自分に向かなかった』と入会してくる人が多い」

 と中村さん、東山さんは口をそろえる。

「諦めずに頑張る人は、3カ月後には劇的に変わります。将来を前向きにイメージできるようになり、人柄も見た目も柔らかくなって。いい出会いをつかんだ時には、うれしくて一緒に泣いてしまう」

 マリッジパートナーズと提携する市町村も増えている。津波被災地となった宮城県亘理郡山元町は、2018年10月から同社と「1年成婚キックオフ事業」と銘打つ婚活事業を始めた。

 かつて1万6700人が暮らした同町は、震災後に約4400人が流出し、県内で特に深刻な人口減少に悩む。1年目に男女5人が参加し、うち女性1人の結婚が決まった。

「以前はイチゴ摘みなど婚活イベントを企画したが、それ以上にはかかわれず、プロのコンサルタントとつながることで参加者の期待に応えられるようになった」

 と、同町子育て定住推進課は話す。

地域の金融機関と提携

 マリッジパートナーズの創業は2013年1月。親会社で、人を求める企業と転職希望者をつなぐ人材紹介会社「HUREX(Human Resource Experts)」(ヒューレックス・仙台市)の社長・松橋隆広さん(56)=青森市出身=は、

「結婚相談所を始めるきっかけは、創業の2年前に起きた東日本大震災だった」

 ときっかけを語る。

 2011年3月11日午後2時46分、JR仙台駅前の高層ビル「アエル」の17階にある同社も、下から突き上げるような激しい揺れに襲われた。

 社長室で採用試験の最終面接をしていた松橋さんは、目の前の重い会議テーブルが生き物のように動くのを見た。仙台駅では天井の一部が落下し、大勢の人がアエルに避難してきた。

 幸いに電気は翌日回復し、松橋さんはスタッフと手分けして社員と顧客の安否確認を急ぎ、食料を確保して分け合い、それから、

「被災の甚大さを知って、まずは2~3年分の運転資金を借り入れた」(松橋さん)

 1995年の阪神淡路大震災を当時勤務していた「山一證券」京都支店で体験し、

「復興には時間がかかること、その間にやるべきことを分かっていた」(同)

 東日本大震災で宮城、岩手、福島3県で1万5000人を超える人々が亡くなり、津波被災地となった沿岸部から仙台市などの都市部に若い家族が流出した。

 東京電力福島第1原子力発電所事故が起きた福島県からは、ピーク時で約6万2000人が県外に避難した。

 地域の過疎化、産業の空洞化は加速するとともに、多くの企業の操業が止まり、市場や取引先への販路を断たれ、おびただしい失業者が出ることになった。

「その数は宮城県内だけで26万人に上った」

 と松橋さんは言う。

「苦しい時期だからこそ、企業を守らなくては地域がだめになる。まさに危機だった。クライアントを回って『社員を解雇しないでください』と助言し、また失業した人たちの受け入れ先を探した。東北の多くの企業が協力してくれ、とりわけ被災を免れた山形県の企業に積極的に受け入れてもらった。

『危機』という言葉は、『リスク』と『チャンス』を意味する文字が並ぶ。大変な時期でも良い人材を採用した企業、踏みとどまり人を切らなかった企業はその後、大きく伸びた。それを後押ししてくれたのが、地方銀行と信用金庫、信用組合など地域の金融機関だった」       

山一證券廃業の経験から

 日本各地で多くの創業者たちが育ててきた企業を廃業させたくない、そこで懸命に働く人々を失業させたくない――。

 その思いは、松橋さん自身の「喪失」の経験に重なっている。

 1997年11月22日朝、山一証券豊橋支店(愛知県豊橋市)の副支店長だった松橋さんは、創業100年の老舗企業の「自主廃業」方針を自宅の電話で聞いた。バブル経済崩壊後の株式低迷の中、3兆円もの負債を抱えての経営破たんだった。

「これからどうなるんだ」と支店長は混乱していたという。「山一のような大会社がどうして? あれほど頑張ったのに」と、同郷の妻も訴えた。

 松橋さんは営業マンとして、1986年入社で、新人ながら社長表彰を受賞。休日も新規開拓に歩き、自らの顧客向けの情報誌もつくり、成績は常に全国トップを走った。31歳で副支店長職に昇進。豊橋支店営業課の部下全員を全国ランク入りさせるリーダーだった。

 山一廃業の翌年6月、筆者が初めて取材した松橋さんは、自主廃業の方針を聞いた日の夜の出来事をこう振り返った。

〈社内外の情報から覚悟はしていた。が、自分の心配よりまず仲間だった〉

 松橋さんはその夜、部下らを家族同伴で自宅に呼んだ。湿っぽい、最後の晩さんではなく、再出発の場にしようと提案した。

〈すごいチャンスをもらったと思ってくれ。これを機に、もっと大きな舞台で力を試そう〉(1998年7月8日『河北新報』夕刊より)。

 そう伝えると、1人1人の再就職の相談に乗り、模擬面接をしたという。

「11月24日の自主廃業の後、数十社から誘いが来た。が、自分の身の振り方は、部下たちの再就職を決めた後のしんがりでよかった」

 選んだのは同業の証券会社や銀行、商社などの大企業ではなく、宇都宮に本社がある人材派遣会社。「地方を良くしたい」という熱意に動かされた。

「自分を信頼してくれたお客様の財産を守れなかった無念はあった。一方で、企業にとって一番大切なのは『人』であることも知った。不安を抱えた部下たちの相談に乗った夜が、その出発点になった」

 と松橋さんは語る。

「山一での経験を地方にお返ししたい、という思いが強まった。私は青森出身で仙台の大学を卒業し、東北への愛着は誰にも負けない。山一の大勢の元社員が地方に帰ったが、東京から地方に人材を戻し、明治以来続いてきた人の流れを逆にすれば、地方には大きなチャンスが生まれる。第2の人生を懸けるには、これ以上ないゼロからの開拓だった」

 新天地の常務取締役・仙台支店長として、恩義ある会社の業績を10倍以上に伸ばし、株式上場に貢献した後の2003年4月、松橋さんはヒューレックスを旗揚げした。東北への「Uターン」希望者をメインに、正社員としての転職を支援する会社である。

「私自身もそうだが、誰にも『いつか帰る日』が来る」

 その時、人は「人財」になるという。

「それは、ただ東京から帰ってくるだけではない。企業社会でのあらゆる経験を、スキルとノウハウ、人脈を含めて持ち帰るということ。その人の周囲の人々と企業を成長させ、就職や転職の希望者を増やす。地域をも変えていく。誰もが、かけがえのない人財だ」

後継者探しを支援する

 「後継者サーチ」というウェブの検索窓口が、ヒューレックスのホームページにある。「後継者に立候補する」と「後継者をさがす」の2つの入り口があり、人材と企業の双方を募っている。

 ここでは単なるマッチングを行うのではなく、

「求人企業の募集の背景を共有した上で、その現状を改善できる人材の要件自体を一緒に創っていく」(ホームページ)

 という作業を経て、一方で相手方の企業が求める人材を同社のコンサルタントたちの面接やスカウティングを通じて探し、絞り込んでいく。

 候補者のデータはこれまでに約400万人分に上り、企業からの求人には、全国の地域の金融機関からの紹介による「独占求人」があることが、何よりの強みだという。

「福島県内には、震災当時に流出した働き手たちが盛んに戻りつつあり、そこでも地元の銀行を通じた求人情報が力を発揮している」

 後継者探し支援のきっかけは、創業から間もなく寄せられた相談だった。

「うちのお客さんで、社長が病気になり継承者がおらず困っている、という会社がある。紹介してもらえないか」

 と、松橋さんは山形県内の銀行から相談を受けた。

 東北では、地方銀行の行員が、お得意様とする地元の企業や店からお婿さんに請われることが昔から多かった。それだけ地域で信頼されている証しといえたが、昨今、上司が間を取り持って縁談を勧めるだけで「パワハラ」とも受け取られやすい。そこでこうした相談が松橋さんのもとに舞い込むようになった。

 松橋さんによれば、2025年には70歳を超える中小企業経営者、小規模事業主が全国で245万人を超え、うち半数以上が後継者不足、将来の廃業の不安に悩んでいるという。「2025年問題」と呼ばれ、このまま廃業が現実になれば、650万人の雇用が失われる可能性がある。

「多くの企業が、後継者はもとより、現経営者を支える『右腕』の幹部候補、次世代へつなぐ大番頭役を求めている。とりわけ後継者を巡っては、身内か役員か、外部の適任者か、という選択になるが、現実には、息子、娘にその意思がなかったり、別の仕事に就くなどの事情で、身内以外で落ち着くのが7割方。後継者の有無は、企業の存続、社員たちの将来にも関わってくる。そこで私たちは、地域の企業を一番よく知っている地元の金融機関との提携を進めてきた」

 創業の年の10月、紹介した山形の銀行と最初の業務契約を結び、後継者や幹部の人材採用を支援してきた。以来、東北6県のほとんどの銀行をはじめ、現在は北海道から沖縄まで100以上の地域の金融機関に提携が広がった。

「地方の中小企業の雇用を守れるのは金融機関と人材紹介会社、と言われるようになった」

 と、松橋さんは語る。 

真の「地方創生」のために

 古里・東北で企業と人をつなぐ人材紹介事業を創業した松橋さんはいま、後継者のない企業の譲渡や引継ぎ、M&A(身内外への会社売却)を手掛ける「AOBA(事業継承推進機構)」、そして結婚相談所のマリッジパートナーズの 3社を率いる。

「すべては地域の『縁結び』の願いから発展した」

 と言い、人材紹介で提携した全国の地方金融機関のほとんどが新たに、3社との間での三位一体のパッケージによる提携を結んでいる。

「後継者が決まった企業は地域に長く働く場を提供し、縁結びした金融機関にとっても持続的な融資先となり、互いの仕事が増える。

 結婚が決まり地域に定住する人は家庭をつくり、一家の口座を開いて金融機関のお客様となり、子どもを育て、住まいを造る。企業と人、金融機関のそれぞれに出番が増え、お金が回り、それこそが『地方創生』になる」

 ヒューレックスへの転職希望者の登録は、過去最高を毎月更新している。提携先が全国規模となったことに加え、大企業が、景気の先行きを見て黒字のうちに希望退職者を募る動きを強めてきたことも影響しているという。

 さらにいま「新型コロナ禍」が、日本と世界の暮らしと経済に暗雲を広げる。

 ブラックマンデー(1987年の世界的な株価大暴落)、リーマンショック(2008年)、阪神淡路大震災、東日本大震災を経験し、乗り越えてきた松橋さんは、現在の新たな危機をどう見ているのか。

「首都圏では内定取り消しをする企業が出ており、これから輸出関連、製造業の大企業を中心にリストラや採用を控える動きが現れてくるのではないか」

「東日本大震災の後、東北に帰り、古里の復興のために新しい人生を始める人が増えた。先行きは不透明だが、首都圏で失業の懸念が現実になれば、逆に私たちのように地方の側で受け入れ、働く場につなぐ支援ができる。そのための仕組みをつくってきた。ものづくりやITなどの仕事を経験した人財の帰郷は、もともと中小企業が担ってきた日本のものづくりを再生させるきっかけにもなる」

「新型コロナ対策で外出できぬ事態となった中でも、ウェブなどITやデリバリーをはじめ繁忙で急成長する業種がある。大都市の暮らしを支える食料、とりわけ農産品と農業の価値は変わらないことも確かめられた。東北から、地方から、次に何ができるかを考える時だ」

 松橋さんの社長室には、「敬天愛人」の額が掲げられている。西郷隆盛の有名な遺訓だが、西郷と同郷の鹿児島人である「京セラ」創業者・稲盛和夫さん(88)の座右の銘でもある。

 山一證券京都支店時代、なかなか会ってくれない稲盛さんに巻紙の「果たし状」を墨書して送り、願いをかなえてもらった。稲盛さんが中小企業経営者育成を目指した「盛和塾」の仙台での代表世話人を務めるなど交流を重ね、

「『利他の精神』を教えていただいた」

 という。

「経営者は危機の時に試される」

「守りながら攻める。常に両面からだ」

 取材中、松橋さんのこんな言葉をたくさん聞かせてもらった。

 職場では毎日、社員たちに仕事前の講話をし、各地の地方金融機関や企業、自治体を巡って、コロナ禍で現在はDVDや動画も送って「苦しい現状も、プラスの発想で見ることで前に進める」と励ます。

 松橋さんの挑戦は今日も続く。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年4月4日掲載

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