野村克也さんが語っていた「投手サッチーを失って」 晩年のぼやきインタビュー

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 2月11日に亡くなった野村克也さん(享年84)といえば、猛妻・沙知代さんとの“婦唱夫随”の関係でもおなじみだった。2017年に先立たれたノムさんは、どんな男やもめ生活を送っていたのか。週刊新潮の取材に語った「孤独との向き合い方」ほか、晩年の“ぼやき”を再掲載する。(以下は2019年5月16日号掲載時点の情報です)

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「手を握ってほしい」

〈歴史的な名スラッガーなのに恐妻家。そしてぼやき。野村克也という人物は一見、とらえどころがないように見えながら、その実、「女房役」という言葉で、人物像をかなり語れそうだ。

 その戦績は実に輝かしい。1954年のシーズン途中にテスト生として南海に入団すると、56年には正捕手に定着。翌57年に本塁打王を獲得すると、65年には戦後初の三冠王に輝いた。70年に兼任監督になるが、77年に退任し、ロッテ、西武へと移籍し、生涯一捕手であろうとした。80年に引退するまでの成績は、MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回を数え、2901安打、657本塁打、1988打点を残している。

 監督としても南海のほかヤクルト、阪神、楽天で、リーグ優勝を5回、日本一を3回達成。名将の名をほしいままにしたが、一方で、率いるチームが快進撃を続けていても、口から出るのは前向きな言葉よりも、ぼやき。加えて強いイメージは、45年間連れ添ったサッチーこと、沙知代さんの尻に敷かれる姿である。

 だが、要は、生粋の捕手であり、投手を支える縁の下の力持ちだという意味で、野村氏は「女房役」であり続けたのだ。〉

 サッチーは本当に自己中心のわがままな性格で、野球にたとえれば、「わがままな大投手」ですかね。だから、僕はグラウンドでも家でも、キャッチャーだったんですよ。彼女は妻らしいことをなにもしないで、全部お手伝いさん任せだったからね。ご飯を食べるにしても、家で食べるのか、外で食べるのか、なにを食べるのか、というのも全部彼女が決めていました。僕はただそれに従うだけだったから。でも、ピッチャーがいてくれないと、キャッチャーとしては、やっぱりさみしいもんですよ。

〈沙知代さんが心不全で急逝したのは、2017年12月のこと。85歳だった。この稀代の名捕手にとって、球を放る投手が不在になったのは、野球に勤しむようになってから、初めてのことだったはずだ。その後の生きざまには、男やもめが生き抜くための、数々の人生訓が見出せる。〉

 サッチーが亡くなる前日とかも、兆候は全然なくて、いつもとまったく変わらないように見えたよ。ひとつだけ変だったのは、亡くなる日の朝、隣りのベッドで寝ていたサッチーが「手を握ってほしい」と言ってきたことでした。数十年の付き合いのなかで、一度もそんなこと言われたことがなかったから、驚いたな。数分くらい無言で手を握っていたと思います。彼女は直感の鋭い人だったから、いま思うと、なにかを感じていたんだろうね。

 サッチーのように突然死ぬのと、長い間闘病したあとで亡くなるのと、どっちがいいのかなあ。まあ、どっちも死ぬんだから、いいとは言えないけど。突然死でつらかったのは、心の整理ができなかったことです。ショックが大きかったから、しばらくは死んだという事実を受け入れられなくてね。墓に送って、ようやく現実を受け入れて、大仕事が終わったな、という感じで心が落ち着いたかな。墓も買っていなかったから、息子の克則の奥さんに、1週間くらいで見つけてもらいました。僕も隣りに入れるようにしてね。

 いまもふとした瞬間に彼女を思い出しますよ。仕事を終えて帰宅すると、サッチーがいない家が、ものすごく冷え切ってるような感じがするんです。精神的な意味でね。いま僕にとって温かいのは、彼女がテレビを観ながら座っていた椅子。いつも座りながら、たばこをぷかぷかと吹かしていました。何回「やめろ」と言っても、たばこをやめなかったなあ。いま僕がそこに座って、一日中テレビを観てるんです。一緒に住んでいたときは、別の部屋でテレビを観ていたのにね。

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