懐かしき長嶋茂雄流自主トレ お金を惜しまずマッサージ師も【柴田勲のセブンアイズ】

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 各方面から自主トレ便りが届いている。2月1日のキャンプ・インを目前に、“球春”到来である。

 最近は他球団の選手たち同士が合同で行ったり、投手と野手が連れ立ってやるケースもある。私たちの時代は他球団の選手と自主トレをやるなんて全く考えられなかった。これも時代の流れなのだろう。SNSなどが発達してすぐに連絡を取り合える。仲間の輪が広がりやすくなっている。

 いまの選手たちはお金を持っている。グアムやサイパンまで足を伸ばす選手もいる。余裕があるんだ。私はよく鹿野山ゴルフ場で自主トレを行った。土井(正三)さん、末次(民夫)さん、それに槌田(誠)さんらと「トレーニング」の名目で1週間から10日はこもった。とは言っても、ゴルフがメインだった。それでもみんなで走り込んだ。特に土井さんが熱心に走っていたのを覚えている。

 まあ、本来自主トレは1人か2人でやるのが理想だ。多くても3人だ。

 一度、長嶋(茂雄)さんと自主トレを行ったことがある。スイッチをやめて右に戻った2年目の69年(昭和44年)だった。

 長嶋さんと自主トレと言えば、もちろん、静岡・大仁町(現伊豆の国市)だ。67年から7年間シーズン前に「山ごもり」と称して、10日間ほど滞在した。

 私から「同行させてください」とお願いして実現した。朝は6時に起床して午後10時には就寝。大自然の山の中を一緒に走り、結構な量の素振りもした。

 宿舎の下に大仁高校があって、生徒たちの朝練に参加したし、バスケットや卓球を楽しんだ。

 長嶋さんは自主トレにはお金を惜しまなかった。宿舎もよかったし、専任のマッサージ師もいて、ご夫婦で来てもらっていた。

 私、さすが長嶋さんだと感心していたら、宿舎の人が、こう話すではないか。

「今年はすごく熱心にやっていますね。特別です。前年の3倍はやっていますよ。柴田さんが一緒だから責任を感じているんでしょうね」

 長嶋さんにじっくり話を聞いたら、「自主トレはオフからキャンプに入る心の切り替えなんだ」と説明してくれた。長嶋さんはキャンプを目の前にして気持ちを奮い立たせていたんだ。

 この年、長嶋さんはリーグ3位の打率・311、本塁打でリーグ4位、115打点で打点王を獲得した。一方の私は盗塁王を獲得したものの、あまりいい成績ではなかった。でも、7月3日の阪神戦(甲子園)で初めて4番に入って、江夏(豊)から初回に2ランを放った。記憶に残る年だった。そのキャンプだが、私が入団(62年)して6、7年は多摩川でインした。もちろん、体作りが中心だ。徹底的に走り込んだ。

 宮崎への移動は8日頃かな。当時、打撃練習では野手同士で投げていた。最初、私が長嶋さんに投げる。その後、長嶋さんが私に投げるといった具合だ。

 というのも、当時は打撃投手が少なかった。打撃投手の採用を始めたのは巨人が1番最初だと思う。65年(昭和40年)頃ではないか。ファームでクビになったコントロールがいい投手を採用した。肩ができた1、2軍の投手たちが投げてくれるのは15日過ぎだった。当時は3月4、5日頃から九州シリーズとしてオープン戦が始まった。

 初めはどこのチームの打者も全然打てずに1対0、2対0なんてのが多かった。打線が活発化するのは3月の中旬頃かな。「打低投高」だった。

 自主トレ便りを聞き、テレビなどで見るたびに当時のことを思い出す。時代の流れとともに自主トレも変わってきているが、まずはケガをしない体を作ってキャンプ・インするのが基本中の基本だ。長嶋さんのように大いに気持ちを高めてその日を迎えてほしい。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月27日掲載

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