追悼・金田正一さん 監督時代、選手にタイトルを獲らせるために考えた“2つの奇策”

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 横浜、ロッテの監督を務めた近藤昭仁氏、阪神で活躍したジーン・バッキー氏、バックトスの名手・鎌田実氏らファンの記憶に残るかつての名選手が相次いで鬼籍に入った2019年。史上最多の通算400勝を挙げた金田正一氏(10月6日逝去、享年86)もその一人である。

 金田氏といえば、国鉄時代の1958年の開幕戦で巨人のルーキー・長嶋茂雄を4打席連続三振に打ち取ったエピソードをはじめとする大投手伝説に加え、当時プロ野球記録だった通算8度の退場劇やロッテ監督時代の近鉄戦でトレーバーにお見舞いした“金やんキック”など武勇伝にも事欠かない。

 これらの有名エピソードは、訃報の直後にもネットや新聞などで紹介されたが、その一方で、金田氏は監督時代に、「なるほど、そんな手があったか」と唸らされるような奇策を用いて、自軍の選手のタイトル獲得を後押しした「無類のアイデアマン」でもあった。そんな“金やん流タイトル獲得作戦”2題を紹介する。

 まずロッテ監督就任1年目の1973年、7年目の右腕・八木沢荘六が10月10日の太平洋戦(県営宮城)で史上13人目の完全試合を達成。7勝1敗、勝率8割7分5厘となり、最高勝率の初タイトルに大きく前進した。ライバルは15勝3敗、勝率8割3分3厘の阪急・米田哲也。数字的には八木沢が上回っていたが、リリーフ中心の起用で、規定投球回の130まであと9回と1/3足りなかった。

 もし2敗目を喫すれば、勝率は7割台まで下がる。残り5試合を1敗もせずに規定投球回に到達するのが絶対条件だった。そんななか、同13日の近鉄戦(同)で、金田監督は2年目の20歳右腕・松田光保をプロ初先発のマウンドに上げる。1軍でほとんど実績がない松田は1回1死から連続四球を許し、たちまち一、二塁のピンチ。

 すると、金田監督は「台本どおり」とばかりに八木沢をリリーフに送る。中2日登板の八木沢は4長短打と犠飛で4点を献上するが、最初の自責点が松田につく以上、負け投手にはならない。そのまま9回まで投げ切り、規定投球回まであと2/3イニングとリーチをかける。結果的にこの完投に等しいロングリリーフが大きくモノを言った。

 そして、同16日の日拓ホーム戦(静岡)、八木沢は3対4とリードされた8回に3番手として登板。これまた負け投手にならない状況で3者凡退に抑え、規定投球回をクリア。この瞬間、最高勝率のタイトルが確定した。好アシストが報われた金田監督は、八木沢に加えて成田文男も21勝で最多勝に輝いたとあって、「監督1年生で2人のタイトル保持者や!」と大喜び。翌年には監督2年生で日本一を達成している。

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