【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(6)「廃校の憾み、少年の胸に宿り」 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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 仙台市の名所、榴岡公園。旧仙台藩で文人藩主と謳われた4代伊達綱村が、「四民遊楽」の場として枝垂れ桜などを植えさせて庶民に開放し、いまも市民たちの花見でにぎわう。

 広い公園には瀟洒な白亜の洋館が立つ。1874(明治7)年に建てられた旧陸軍歩兵第四連隊兵舎で、現在は市歴史民俗資料館。戦前、東北の軍都と呼ばれた仙台には第二師団司令部(現東北大学川内キャンパス)をはじめ、いくつもの旧陸軍施設が広大な面積を占めていた。

仙台陸軍幼年学校

 歴史民俗資料館と道路を挟んで、古今の歌枕・宮城野の名をよすがとする宮城野中学校がある。かつて、日清戦争後の1897(明治30)年に開校した仙台陸軍地方幼年学校の一角だった。中学校の歩道に面した隅に、幼年学校跡の記念碑と並んで、長年の風雪で黒ずんだ大きな石碑が残され、漢文調の碑文がこう刻まれている。

『此塢曰九思山。尤富景致。頂上松樹為今生所手植。本校創立以来二十有八年。花晨月夕為師生所遊息。今校将廃。感慨之情有不可言者。乃刻石以伝之干不朽云。 大正十三甲子三月』

 九思山とは、幼年学校の南西隅に植物園とともにあった高さ2メートルほどの築山で、第9期生たちが卒業記念につくった同校のシンボルだった。皇太子時代の大正天皇手植えの五葉松がてっぺんにあり、桜、ツツジも植えられ、毎年春に学校行事の観桜会が催された。

〈九思山満開の桜の下で、全校教官生徒揃っての花見の会は、九思山の桜が立派であっただけに、忘れ得ない思出である〉

 戦後、同窓生たちの「仙幼会」が編んだ『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』(1973年、松下芳男編)に、第26期生のOB小松冬彦氏のこんな追憶が載っている。

 碑文(訳文)はさらに、創立以来28年、師と生徒が春の朝、秋の夕べを共にし学んだ本校が、いま廃されんとしている。感慨の情を言い表すことができない――と続く。仙台幼年学校が廃校となったのが1924(大正13)3月18日。最後の卒業生となった第25期生たちが、ただの惜別ではなく、母校喪失への痛恨の思いを込めて建立した石碑だった。

 1学年下の第26期生(1922年3月入学)約50人は卒業までもう1年の学びを残しながら、東京と広島の幼年学校に、ドイツ語、フランス語の専攻クラス別に半数ずつ移籍となった。

 廃校の時代背景には、26期生が入学した1922年に米国ワシントンで成立した、史上初の国際軍縮条約があった。英米に日本を加えた海軍列強(第1次世界大戦の戦勝国)の建艦競争に歯止めが掛けられ(主要艦保有比率が5:5:3に制限)、日本の陸海軍の予算も建軍以来初めて縮小された。地方の街へも押し寄せた波が、仙台幼年学校の廃校であった。

 大きな歴史の奔流に投げ出された第26期生の中に、この連載の主人公、青森県出身でまだ16歳、2年生の対馬勝雄(1936年の「二・二六事件」で青年将校の1人として決起し銃殺刑)がいる。

古里青森からの夜行列車

 廃校まで3カ月を残すだけの、1924年1月1日からの勝雄の日記が遺品に残され、7歳下の妹、波多江たまさん(弘前市で今年6月、104歳で他界)ら遺族が編んだ『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄記録集』(自費出版、1991年)に収められている。当時の勝雄の心境と、取り巻く時代を読み取っていきたい。

 日記が始まる元日、勝雄は古里の青森市相馬町(現・港町)に帰省しており、1人の子どもに戻って冬休みを過ごしていた。その日は小学校時代の友人たちが実家に集まり、彼らと同級会に出掛け、唱歌の合唱、詩吟、懐旧談、腕相撲などを楽しんだ。

 1月3日は、勝雄がリーダーとなって結成した、相馬町の男子たちの「少年団」との交流。

〈コクヅ山(空き地の木屑山?)攻略ノ雪中演習ナドナス〉

 とつづり、雪3尺が積もった翌4日は、

〈家ニコモル。暖炉が熾ンニモエルト暖カイ〉

 学校の日常から離れて穏やかな正月を満喫した。しかし、この屈託ない田舎の少年を、もう1つの世界へ呼び戻す日が否応なしに訪れる。

 1月6日午後5時頃に乗った、東北本線の仙台行き夜行列車。幼年学校の同級生と乗り合わせ、車中でドイツ語の勉強を済ませたが、暑苦しく感じて、

〈頭苦シキ気持シテ腹モ痛ク力ナシ。何カ思ヒテ気弱ク泣出サントシタルハ悲シ〉

 と、言いようのない心細さ、孤独感に襲われた。

 その気持ちは、同じ東北の田舎出身の筆者にも分かる気がした。夏冬春の長い休みを終えて東京の大学生活に戻っていく常磐線の上野行き電車で、いつも、古里との間で心が引き裂かれるような痛みを感じた。どちらの世界が本当の自分の心の居場所なのだろうか――。

「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と歌った石川啄木(岩手県出身)、「東京に空が無い」との心の叫びを残した高村智恵子(福島県出身)をはじめ、幾多の「上京者」たちが感じた宿命の痛み。勝雄もそれを、28年の生涯の間に抱えていくことになる。

 不安と痛みをかき消し埋めるものは、勝雄の場合、幼年学校で育まれた大いなる皇国と1つになるような絶対の忠誠心と、未来の使命を担いし者としての誇りだったかもしれない。それは夜行列車が夜半、盛岡駅に停車した時に突然舞い降りた。(以下、1月6日の日記の続き)

〈激シキ万才ノ声二驚カサレテ目覚ム。折シモコノ土地ノ者ラシク十数名ノ男車外ニアリ、隣ノ列車ノ入営者ヲ送レル如シ〉

 という、期せずして出合った光景が、少年を再び「軍人」の世界に強く引き戻した。

〈軍歌ヲ高唱シ、天皇ノ万才ヲ叫ビテ息マズ。熱誠溢レルヲ眺メテハ只々、アゝコノ人々アリテ我ガ日本モト思ヒ感深カリキ。西洋ニテハ入営者ヲ涙ニテ送ルトカ、サテモコノ様ハメデタキコトナル〉

理想世界廃する理不尽な決定

 戦後、『名探偵ホームズ全集』(ポプラ社)などを著した作家山中峯太郎は、1901(明治33)年、第4期生として大阪幼年学校に入った。著書『陸軍反逆児』(1954年、小原書房)の中で、幼年学校に入った初日、寄宿生活を共にする同期生50人の前で生徒監の陸軍中尉が語った訓示を、記憶も鮮やかに書いている。幼年学校とはどんな世界だったか、勝雄の時代も変わらなかったのではないか。

〈きょうから、諸子の親となり兄となって、諸子を訓育するのである。なおそれから、同期生というものは、寄居を共にして苦楽を分ち、たがいに何から何まで知りつくしてしまう、だから、親や兄弟に話せないことであっても、同期生には、すべて打ちあけて相談するようになる。ここに、きょうから諸子は、君国のために生死を共にする同期生になったのだ。一生涯を通じて、これを忘れてはならない、終り〉

 幼年学校の日常は、毎週月曜日の朝、講堂に生徒全員集って「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(軍人勅諭)を全文奉読することで始まった。

〈我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある〉

〈朕は汝等軍人の大元帥なるそ〉

など天皇統帥の絶対を説く長大な前文と、

〈一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし〉

〈一 軍人は禮儀を正くすへし〉」

〈一 軍人は武勇を尚ふへし〉

〈一 軍人は信義を重んすへし〉

〈一 軍人は質素を旨とすへし〉

 と説く五カ条の精神を、諳誦できるまで繰り返し読み、

〈義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ〉

 という皇国軍人の誠心を自らの血肉とし、軍人の理想像たらんとする志をはぐくんだ。

 将校となって訓育者の側に立った時、新兵たちに軍人勅諭を諳誦させ、その精神を伝えることが代々受け継ぐべき責務でもあった。

 前掲『山紫に水清き』をひもとくと、毎日の文理・体育・柔剣道の講義(語学は半数ずつドイツ語、フランス語)と試験のほか、勝雄ら第26期生の年中行事として観桜会の後、春季運動会、談話会(弁論発表)、石巻での游泳演習、磐梯山登山や北海道などの修学旅行、天長拝賀式、武術会、松島遊覧、体操競技会、本校招魂祭、職員生徒懇談会(余興発表会)などがあり、生徒たちは切磋琢磨の中で同期生の生涯にわたる絆を強めた。

 多くの現役将校が務めた教官たちは、厳しくも温かな愛情を日々の訓育に注いだという。勝雄の同期で親友となった桜井亮英氏(仙台出身で戦後、宮城県議会議員)は、『山紫に水清き』に寄せた一文でこうつづった。

〈菊地(米三郎)生徒監主事は、生徒が風邪を引くと、陛下から預かっている生徒を病気にしたといって嘆かれたが、仙幼校は、校地一万坪、生徒数百五十名、一学級二十五名編成であり、校長以下文官武官の教官をはじめ、炊事夫、門衛など、合せて三十名程の大世帯であり、莫大な国費を投じて、次の時代の国軍の幹部を養成する特殊教育の場であった。一人でも落伍する生徒があれば国家の損失であるという管理者の責任感が、常に念頭を去らなかったのであろう〉

 16歳の少年たちにとって理想世界に等しかった、学び舎の廃校。勝雄の日記は、その理不尽な決定の背景にあった社会の変化に、苛立ちと憂い、怒りの心情を吐露していく。

軍縮と軍人軽視の時代

 廃校の話を生徒たちに告げたのは、時の陸軍大臣山梨半造大将だった。前年9月28日に仙台幼年学校を視察に訪れ、講堂での訓示で「この山梨が大臣の時に、伝統あるこの学校を廃止するように決定したことは、まことに遺憾至極である」との趣旨を述べた、と前掲『山紫に水清き』にある。勝雄と同期生で親友の1人だった工藤鉄太郎氏(後に陸軍中佐)の「陸相が、教育勅語の額を背にして壇上に立ち、『君たちが大きくなるとわかる』と訓示した声は、未だに耳の奥から消えない」という回想も紹介されている。

「山梨軍縮」と言われた。ワシントン海軍軍縮条約締結の立役者で、日本政府首席全権委任だった加藤友三郎海軍大将が、日本の軍縮実行の責任者たる首相に任ぜられ、率先して我が身を切った海軍の後に陸軍も続くことになった。

 1917年の革命によるロシア帝国消滅で北方の脅威が薄れ、革命干渉戦争だった兵力7万余りのシベリア出兵も加藤内閣の手で幕を引かれ、国際平和協調と財政緊縮が趨勢となった、国会や世論の軍縮要求を陸軍も呑まざるを得なくなった。

 山梨陸相の下で決定された陸軍整理案は1922~23年の2次にわたり、師団の数はそのままに約6万の将兵や約1万3000の軍馬などを削減する代わりに、軍備の近代化、部隊の新設などを求めた。

 その廃止対象に、仙台幼年学校も含まれたのである。

 軍縮はこの後さらに、1924年の宇垣一成陸相による3次整理案(宇垣軍縮)が続き、約3万9000の将兵が削減された。その間、将校約3000人が整理されて、学校の教練役に配属されたり、退役したりし、志願者も著しく減った。招いたものは、日露戦争時の世間の英雄視がうそのような軍人の地位低下であった。

 生徒たちの心に衝撃の影を広げたのは、憧憬と誇りの軍隊だけでなく、幼年学校までもが「無用の長物」とみられるようになった時代への屈辱感、無念さであったろうか。軍縮すなわち軍軽視、軍人蔑視へと世間の空気は流れた。その風潮を伝える当時の『東京日日新聞』の軍人の投稿評論を、『転換期の大正』(岡義武著、岩波文庫)が記録している。

〈関西の或都市辺では、頑是ない小児がいふ事をきかぬ場合、親がこれを叱るに、「今に軍人にしてやる」と怒鳴りたてる〉

〈軍人の影がいよいよ薄くなって、若い将校が結婚の約束をしてゐたのが、どしどし嫁の方から破談にしてくる〉

〈世の一般人は軍人は頑迷で融通性がないと一様に断定し、退役の軍人が職を求めると、「軍人の古手に何が出来るものか」と一口にけなす。軍職を不生産的職業といひ、時代錯誤といひ、穀潰しといふ。あゝ、世の有識者はこの現象を何とみるであらうか〉(1922年8月27~28日掲載の陸軍三等軍医正・寺師義信『軍人の立場について』より)

 勝雄と同期生のOB三宅克巳氏の悔しさにじむ述懐が、前掲『山紫に水清き』にある。

〈私が受験した頃は、世界も日本も、軍縮の最中だったし、また日本の社会運動の形成期だった。五年間の第一次ヨーロッパ大戦は、大正八年のパリ講和会議で終結、九年国際連盟成立、十年ワシントン会議で、世はあげて永久平和の夢、日本は戦争で俄か成金の世の中で、今頃軍人志願とはバカの骨頂だといわれた〉

〈大阪と名古屋の幼年学校は(注・1922〜23年に)既に廃止されていた。だが幼年学校が全部なくなろうとは考えなかった。仙台は質実剛健だから必ず残す、永久平和なんてありえない、われわれが頑張るんだ、という追いつめられたような気風も強かった〉

新思潮と大衆運動の大変革期

 1924(大正13)年初めからの勝雄の日記に戻ってみる。

 1月14日は同室の仲間たちの点呼で、勝雄が人数を間違えて週番士官に報告してしまうミスをした。「心配ダ」とつづりながら、その後に、

〈近頃ハ何デモカンデモ『ドウニデモナレ』ダ〉

 と、投げやりなつぶやきが続く。

 同22日は新聞で読んだ記事に触れ、日本社会に広がっていた社会主義思想への嫌悪感をぶちまける。

〈戦線同盟ノ社会主義者ガ(同月)二十六日ノ御慶事ガ終ツテカラ農民運動トカ何トカマタ大イニ運動ヲ始メルトノコト。右ノ如キ事柄ヲ只載セテ置ク馬鹿新聞(マタ落度カ)モアツタモノダ〉(注・御慶事とは、皇太子=後の昭和天皇=の成婚を指す)

 さらに、

〈社会主義者ノ運動ガ当然デアルカノ如ク事実バカリ述ベテヰル〉

 と新聞をも非難し、その憂うべき悪影響とばかり、憤りは身内である軍隊の士気低下の現状にも向く。

〈前ニモ入営ノ宣誓ヲ拒ンダ奴ガアツタ。我々将校生徒(幼年学校生のこと)タルモノハ カヽルトキ断固タル行動ニ出ツベキ修養ヲナシオクベキデアル〉

 ポスト第1次世界大戦=1914〜18(大正3〜7)年=のこの頃、日本には軍縮と国際平和、民主主義の潮流のみならずロシア革命の衝撃が押し寄せた。国内でも1918年7月、米価高騰が背景とされる「米騒動」が全国に波及し、大衆運動の時代に火をつけた。

 大戦終結の翌12月に吉野作造、大山郁夫、新渡戸稲造らの啓蒙団体「黎明会」、東京帝大の法科学生らによる民主主義思想団体「新人会」が相次ぎ産声を上げ、労働争議の現場や共鳴する知識層にロシア経由の社会主義が流布。中国や日本領だった韓国にも民族自決の気運と運動が広がっていた。

 同じ1918年、憲政史上初めて平民出身の原敬首相率いる政友会内閣が発足し、本格的な政党内閣時代が始まった。大正デモクラシーの幕開けだ。国民平等の普通選挙を求める世論も高まり、1919年3月に催された普選実現の国民大会(東京・日比谷)に5万人が参加した。

 同年8月には、日本最初の労働者団結組織として各地の争議を支援した鈴木文治らの「友愛会」が労働組合の全国連合「大日本労働総同盟友愛会」の旗揚げをし、「人間はその本然に於て自由である」と宣言した。大杉栄らの無政府組合主義(アナルコ・サンディカリズム)も論争を巻き起こした。大戦後の不況が深刻化した1920年に初めてのメイ・デーが催され、労働組合指導者らが結集した「日本社会主義同盟」が誕生。1922年には堺利彦、山川均らの「日本共産党」が結成された。社会の大変革期だった。

 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起こる。社会不安と混乱の中、東京で自警団の住民らが多数の朝鮮人を虐殺。甘粕正彦憲兵大尉の大杉栄・伊藤野枝夫妻殺害、習志野騎兵第十三連隊による労働者10人の殺害(亀戸事件)なども相次ぎ起こった。軍縮への不条理感とともに、新思潮と大衆運動への軍人、保守層の「日本の国体破壊」への危機感も広まっていた。勝雄の日記にも、己が価値観、正義感を揺るがすかのような世情への苛立ちがにじむ。

〈近頃衆議院解散トカ清浦(奎吾)内閣如何トカ新聞デハ…実際ニハ知ラヌ…世間ガ騒イデ居ルヨウデアル。時節柄ドレガ悪イカ知レヌガ騒ギタルトハ面白クナイ。何如(原文ママ)ナル人ガ何ヲ思フテ争フノデアラウカ。互ニ譲リ合フテヨク考ガヘル頭イヤ心ガナイノカ〉(1924年2月3日)

〈新聞紙ニ報ズル所此ノ頃頻々トシテ記者ノ脱線転覆ヲ企ツル者アリ。電車ヲ妨グルコトヲナスナリ。噫何人ノ所為ゾヤ、果タシテ日本人ナルカ、未ダ知レズトナン

 ナリユクハコレ楽観スベキニアラズ。ムシロイナイナ大イニ憂ヘザルベカラズ。憂国ノ志士ヨ、起テ。我レ絶叫セザルヲ得ズ〉(2月5日)

〈東京幼年学校生徒ノ退校スルモノ続々出ヅトノ新聞紙ノ報アリ。信ジ切ルベキニアラズ。続々ナドヽ、コノ間御成婚当日ノ新聞ニ軍人ノ非常識ヲ書キ立テル報アリシモ矛盾ナリ〉(2月6日)

〈共産党事件ノ何トカ新聞ニ載ツテヰタ。悪イ奴ダ。ソノ者ニハ(犯罪人)新聞、雑誌ノ記者ガ各々数名、著述業ノ者ナドニテ総員二十九人トカ。ソノ職業ニツイテ注意スベキ点ガ多イ〉(2月18日)

勝雄の秘密を覗いた妹

 不機嫌な顔ひとつ見せず、朗らかで頓知たっぷりに仲間たちを笑わせ、親には孝行息子で妹思いの優しい兄――。

 勝雄の7つ下の妹で、二・二六事件に殉じた兄を終生語り続けた弘前市の波多江たまさんにとって、いつも微笑みを浮かべたような勝雄の面影は変わることがなかった。その兄のどこから、激しい憎悪、嫌悪、呪詛にも響く日記の言葉の数々が湧いてきたのだろう。

 たまさんが前掲『邦刀遺文』執筆のため、妹の目で勝雄の生涯と家族の歴史を書き起こした「記憶のノート」の1冊に、幼い頃に垣間見た兄の秘密めいた一面が語られている。

〈兄が(青森)中学に入っていた頃、子供達が皆でかくれんぼをした事がありました。私も仲間に入れてもらえました。私は梯子を登り、まげ(津軽弁で天井裏)に上がりました。まげというのは屋根裏の様な所で普段使用しない道具や古い本(教科書など)等をしまっておく所です。そこに隠れた私は、鬼がなかなか来ないので退屈になって、目の前にあるりんご箱に何が入っているのか見たくなって、蓋をあけました。

 すると其処には少年団の帖面(名簿や出席簿、成績表、日誌など)、それに見なれない本が少しありましたので、二、三冊見てみますと、㊙︎の印を押した本が出てきました。私は好奇心にかられてぱらぱらとめくってみました。すると其処には政治家の金の流れが名前を挙げて書かれていました。何々の椅子をいくらで買ったか、詳しく書かれてありました。私はかくれんぼを忘れ、只々びっくりするばかりでした。

 私達が立派な人だと思っていた政治家が陰で何という汚い事を。猶も先を読もうとした時、私を呼んでいる声が聞こえてきました。私は、あわてて其の本を元の所に返して梯子を降りました。私は秘密をのぞいたのです。悪い事をした様にびくびくしました。兄はこんな事も知っているのかしら、それにしても何の為にと、子供心にもその事が頭から離れませんでした〉

軍人は政治に口を出すべからず

 原敬内閣発足に始まり、日本に本格的な政党政治が生まれた大正デモクラシーの時代は、勝雄の少年期と重なる。

 当時の内閣総理大臣は天皇からの大命で任ぜられ、仙台幼年学校2年生だった1924(大正13)年2月の日記にある清浦内閣は、政党内閣の流れの後、海軍出身者の加藤友三郎、山本権兵衛に続いたもので、内務官僚出身で枢密院議長だった清浦奎吾首相以下貴族院議員によって占められ、時流に逆行する「超然内閣」と呼ばれた。

 政党人である加藤高明、高橋是清、犬養毅ら護憲三派による憲政擁護運動(第2次護憲運動)が起こり、政党政治を奪還する「特権内閣」打倒の政争が繰り広げられて、この年5月の総選挙で護憲三派は勝利。大衆を基盤とする政党政治はそれから8年間が全盛期とされる。

 勝雄が中学1年生だった1921年11月4日に、原首相が東京駅で一青年に刺殺される。当時の政友会政権は党利に絡む閣僚らの汚職事件頻発に彩られ、宰相暗殺も政治腐敗の一掃を訴えるテロだった。純粋で正義感の強かった少年の目に、大人たちの政治とその裏の暗黒面がどう映り、心に何が育まれていったのか――を、たまさんのノートは示唆している。その怒りと政治家への不信は幼年学校生の日記にも間欠泉のように噴き出した。

 やがて政党政治の全盛期を海軍将校や国家主義活動家による「五・一五事件」(1932=昭和7=年)が終わらせ、さらに勝雄自身を、その4年後の「二・二六事件」でとどめを刺す役とさせる運命が待つ。

 たまさんの記憶のノートは、屋根裏での兄の秘密の記述に続いてこんな話を続ける。

〈兄は大酒飲みの父(対馬嘉七さん)を大変尊敬していました。男同士、私達(母や3人姉妹)には判らない、あいつうじるものがあった様で、父にはいろいろの事を話していた様でした。

 ある日、父は兄に向かって「軍人は絶対政治に口を出してはいけない」と戒めました。私は、兄が注意された事は之より他に知りません。叱られたのも見た事がありませんでした。之が初めてで最後でした〉

〈抑(そもそも)国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁(わきま)へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り〉――。

 これは軍人勅諭の第一箇条「軍人は忠節を盡すを本分とすへし」の一節だ。日露戦争の出征軍人だった父嘉七さんは、息子の言説に危うさを感じたのか、先輩としてそのこと諭そうとしたのだったか。

宮城野原もとおくなりつヽ

 勝雄の日記は続く。1924年3月18日、仙台幼年学校最後の卒業式、2年生終業式の模様にはなぜか触れず、仙台を離れる心象をこうつづる。

〈午後五時四十五分仙台駅ヲ発車ス。(中略)駅ニテ新聞ヲ見ル。我ガ廃セラレタル校ノ正門及ビ本日ノ卒業式ノ写真ノレリ。ウラムラクハ余コヽニテコノ好記念品ヲ失ウ〉

 日付が変わった3月19日の青森行きの夜行列車で詠んだ、「廃校の日(汽車の中にて)」という歌を日記に残した。仙台幼年学校についての最後の記述になった。 

 宮城野は煙のとべるたえまより

 暮れの顔にて我を送りぬ

 かなしやな森の都も見えずなり

 宮城野原も遠くなりつヽ

 暮れてゆく山のはの雲を眺めても

 学びや閉じしし今日を思ほゆ

 深い憾みを抱えた勝雄は、青森での春休みの後、転入先の東京幼年学校へ向かう。変革の時代の裏面で、その犠牲のように、愛する古里には悲しき貧困の影が伸びていた。少年の心はまた痛ましく引き裂かれてゆく。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年12月18日掲載

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